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感想文:イメージの力(東南浅葱さんイメージ絵「接」について)


イメージの力について

イメージの力というものがあります。

イメージ自体にも力はありますが、わたしがここで言っているのは人間の持つイメージ能力のことです。

イメージの力、つまりは想像力のこと。

では、イメージの力とは一体どういう力なのでしょうか?

イメージというのは、ようは、見たもの感じたものを「何か」に変換することでしょう。

見たもの感じたもの、というのは一言で「経験」と言い換えることができます。

また、変換される「何か」というのは、概念だったり、絵だったり、言葉だったり、つまりは「創造物」と言い換えられます。

したがって、イメージの力とは、経験を創作物に変換する力のことなのだと思います。

感じ取るだけではないし、創るだけでもない。

インプットだけではないし、アウトプットだけでもない。

鋭敏かつ素直な感性で読み取り、大胆かつ繊細に創作する力。

わたしは、東南浅葱@夢で見たものを書くだけの人 さんにこのイメージの力を強く感じます。

東南さんは、「宿命物語シリーズ」というアイルランド伝承と北欧神話をモチーフにした挿絵付きの小説を連載されています。

長く続けられている連載で、東南さんのイメージの深さを感じることが出来ます。

また、「イメージ絵」というタイトルで抽象画をたくさん描かれています。(マガジン「夢筆の抽象画」でまとめられています。)

わたしは中でも『止』という作品がお気に入りです。

タイトル通り、止まっている瞬間を描かれているのですが、じっと見ていると、少しずつ動いている、脈動しているような錯覚を味わうことが出来ます。

そしてなんと、この「イメージ絵」について、リクエスト募集をされています。

そこで、イメージ絵のファンであるわたしは、すかさず申し込みしました。

漢字は「接」、カラーは「ターコイズ」をリクエスト。

そして先日ついに完成品が公開されました。

大変嬉しいことに「接続されたデレラ」自体を抽象画にしてくださいました。

さて、繰り返しますが、イメージの力とは、鋭敏かつ素直な感性で読み取り、大胆かつ繊細に創作する力です。

では、このイメージ絵では何が読み取られ、何が創作されたのか。

わたしなりに考えてみます。


白い枠線

東南さんの絵とコメンタリーの一部を引用しましょう。

「接」,作者:東南浅葱@夢で見たものを書くだけの人さん

なので今回のイラストは「発信する事」と「繋がり合う事」をテーマに据えて、中心部から幾重に広がるターコイズブルー(リクエストいただいたベースカラー)のグラデーション円を「発信されている電波」に見立て、円状に広がる細い白線は「地球全体」を、所々に浮かぶ水球のようなものを「浮かび漂う思考」としてイメージしました。

更に少し太めの白線で「枠を超えて繫がる事」と読書家である【接続されたデレラ様】をイメージした「本棚」を表現し、最後にほぼ背景と化している「哲学的思考→Philosophical thinking」という英語を更にギリシア文字変換(哲学は古代ギリシアで始まったと言われているので)した文字を加工して合わせました。
記事:『接』(【接続されたデレラ様】よりリクエストいただきました、色と漢字からのイメージイラスト)本文より

格子のように描かれた白線は、「枠を超えて繋がる事」そして「本棚」をイメージされた、とのこと。

わたしは「世界を捉えるとき、必ずのようなものを参照しているのではないか?」と考えています。

下記の「エッセイ:死角について」でも考えていることです。

さて、ここでは「枠」についての考え方を飛躍させましょう。

枠はある意味で、「迷路」のようなものです。

まず、わたしたちは、「学習」によって枠を組み上げます。

学習というのは、たとえば「本を読む」ことなどです。

ようは、学習というのは「インプット」のこと。

つまりわたしたちは、「学習=インプット」によって「枠」をこしらえるのです。

ここでは「学習=インプット=本を読む」で連想を広げていきましょう。

わたしは本を読んで枠を作る、枠を積み上げる、そうして積み上げた枠はいつしか本棚になる。

本棚はつながり、壁となり、道ができる。

さらに本を読み、壁を作り、道を延ばす。

最終的にはその壁は迷路と化し、自らを閉じ込めます。

壁に覆われたデッドロック、行き止まり、自らを閉じ込めてしまいかねない迷路、しかし、その枠を使ってしか、わたしは世界を認識できないのです。

また、枠という煩わしさを通じてわたしは、この枠の壁を乗り越えたいと欲求します。

困難によって、困難の乗り越えを欲求する。

躓いたときにはじめて「起き上がること」を欲求するように。

それこそ、東南さんがイメージした「枠を超えて繋がること」の正体なのではないでしょうか。

アウトプットを通じて、わたしは他者と繋がり、壁を乗り越える。

まさに、東南さんの作品と接続されることによって、初めてわたしは「壁=枠」を乗り越えて、その背景にある世界に「現れること」ができる。

それが、東南さんの描いた「白い枠線」からイメージできます。


庇護者としての地球

さて、枠の背景には「浮かび漂う思考」と、放射の中心に「地球」があります。

「浮かび漂う思考」とは、未だ出会ったことのない「他者」であり、かつ同時に、わたしがイメージによって捉えようとする「何か」でしょう。

それら「潜在的な他者」と「イメージすべき何か」は、中心の「地球」によって庇護されている。

中心に据えられた「庇護者としての地球」は、東南さんの神話的想像力の賜物だとわたしは思います。

そして全体を横断する言語(哲学的思考)が、この世界を揺るがしています。

地球という庇護の光と、光あれという言語。

思考(言語)は世界の光を記述しています。

今わたしが言語(思考)によって、東南さんの描いたイメージを記述しようとしているように。

フラジャイルな世界を、ある種の暴力性を孕みながら、言語によって記述する。

この感想文という記事自体が、実は、わたしのイメージの力と、東南さんの力のぶつかり合いであり、響き合いであり、接続なのです。

(※あくまでも、わたしの私的な感想であり解釈であります。)


イメージとエビデンス

さて、イメージの力というのは、経験を創作物に変換する力なのでした。

現代では、このイメージの力、あるいは想像力というものは嫌われることがあります。

主観と客観という二項対立の概念が導入され、想像力は主観に位置づけられる。

その反対の客観には、動かない数値エビデンスが配置される。

つまり想像力のような主観的なものではなく、客観的な数値エビデンスが好まれることがあるのです。

しかしながら、わたしは「イメージの力」は、主客の向こう側にあると思います。

イメージの力は、主観的なもののように思われますが、それは違う。

イメージというのは、あるひととあるものが触れ合う、その接続の瞬間に訪れる微かな可能性なのです。

その微かな可能性を、経験と創造物が触れ合う一瞬を、ひと突きにして捉える、それがイメージの力なのです。

数値エビデンスは、本当に世界を捉えているでしょうか?

数値エビデンスが悪い、と言いたいわけではありません。

ただ、数値エビデンスは世界のある一面を捉えているに過ぎません。

イメージの力は、そのようなエビデンス的で実証的な態度とは、別の仕方で世界を捉えることです。

イメージの力が捉えるのは、詩的で、抽象的で、不気味でかつ美しく、恐ろしくてかつ可憐な世界。

東南さんの捉える詩的で抽象的な世界にわたしは見惚れます。

インプットとアウトプットを繋ぐ東南さんの作品をこれからも楽しみにしています。

この度はリクエストに応えてくださり本当にありがとうございました。

描いていただいた作品は大切にいたします。


おわり


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