【不在】#30DaysFilmChallenge DAY7
それはたぶん、オフビート映画ってやつだ。
飽きない、あるいは飽きが来ないというのは、結局のところ、当人が捉え切れていない状態、対象のことをよく分からないままの状態にあることを指すのではないか?という何とも不安定な整理から、今日のお題に入ってみる。この作品はこのような作品であると上手く説明できてしまったら、その時点で作品を味わい尽くしてしまって、何ならちょっと飽きてしまっているような気がする。逆に作品の中に味わい尽くせていない「何か」があるような気がして、上手く説明をすることが出来ない作品は(まだ)飽きていない作品なのだろうなと。予定調和を乱しているような、普通とは違うところにアクセントを置いたオフビートな作りの作品は飽きない。捉えどころのない作品(ジム・ジャームッシュの作品等)の雰囲気や世界感を「オフビート映画」と呼ぶようだが、その「オフビート映画」の定義って何だ?人によってまちまちで非常に曖昧だ。物語を構成するプロット(オンビート)の裏に隠れているプロットと一見関係のない(ビートを持たない音/オフビート)がうまいこと利いている映画?ん、違うの?…でも、まあそういうことにしてそろそろ本題に入ろう。
何度観ても飽きない映画
しばらく経ってから、また観たいなあとなる映画は「何度観ても飽きない」映画とは言わない。エンドロールが切れた後に間髪入れずにオープニングに戻ってもう一度観ることのできる映画が本当の意味での「何度観ても飽きない」映画だと思う。そんな作品があるわけない…ことないから、持って回った言い方をしてみた。ステイホームとなった今年の連休期間中、実際に三回転させたにもかかわらず、休み明けの週末にも再度観た。何なら今から観てもいいかなと思える作品がこちらだ。
この作品はゴジラ映画であってゴジラ映画ではない。主役は「巨災対」と呼ばれるゴジラに対抗するチームだ。
こんな風に熱線を吐いて、東京の街を蹂躙する場面もあるにはあるが、作中の登場シーンのほとんどが、直立不動か寝ているかのいずれかで「不在」によってその存在を示す「神」のようなものだ。
では、やはり「巨災対」のメンバーを軸とする「群像劇」なのかと言われると、そうとも言い切れない。本当に沢山の登場人物がいるのだけれど、名前と役割と長いセリフを与えられただけで、それぞれが勝手に動き出すこともなく、監督によって機能的な記号として管理されている。ある意味、とてもステレオタイプなキャラクターばかりだ。
ただ、ギリギリまで個性(人物的背景)を剥奪されて記号化されたキャラクターたちだからこそ、かえってキャラクターに色を付けたくなる。観る側の想像力、妄想力が試される構造になっている(ような気がする)。
『シン・コロナ』として見直す試み。
連休中に連続三回転もさせて観たのは、ゴジラをコロナに置き換えても成立してしまうという発見からであった。群衆(避難、疎開、デモ)はほとんど描写されないことで「余白化」して、その存在を十分に感じさせる。ゴジラ対策のキーマンである牧博士は一度も姿を見せない。陰で動き、巨災対の作戦成功を支えた里見内閣総理大臣臨時代理は、登場時点では無能キャラとしての振る舞いを見せ、一旦、物語上の役割から外れたことで、その存在を強めた。
(毎回、このシーンで涙してしまう)
作品の読み取りが一筋縄ではいかないことが、「飽きない」の条件だとするのはいささか乱暴に過ぎるかもしれないが、すべてを描き切らない、「不在によって存在を高める」というあたりは、何度でも観られる映画に共通している特徴なのではないだろうか。
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