HAIIRO DE ROSSI『Time has come』私なりの解説。私が『ヒップホップ』が嫌になってからの日々とリアルネスについて。
ハイイロさんの8枚目のアルバム『Time has come』が発売となった。とても嬉しい事だ。本当であれば、リル・ナズ・Xのように、という表現も軽率すぎるが、世間からも祝福されてほしいアルバムである。
同時に、このアルバムは、私がプロデューサー/ビートメーカーとして今までかかわった、どの作品よりもリアルだった。目を背けたい現実に、新たに父親となったハイイロさんが、寛大なやさしさを持ってハードコアに、そして紳士に向かい合った作品であるとも思っている。
■ ハイイロさんは日本人ではじめてビートを頼んできたラッパー。
ハイイロさんと初めて作品を作ったのは2010年で、今から10年前になる。それまで私は、日本在住のオランダ人の相方とシカゴのTFDというクルーに在籍していて、LAのMUSHレーベルなどのラッパーに、電子音が垂れ流されていたり、変拍子だったりする、ひねくれた、実験じみたトラックを提供していた。
もともと私の母親がウータンクランや、ウルトラマグネティックMC's、MCソラーなどのアルバムを聴いていた事もあり、そういった90sのヒップホップは、私にとってとても自然な音楽で、同時に、特に気をかける事のない音楽だった。
一方で、自分の金でサンプラーを購入し、トラックを作り始めた中学生のころにもなると、両親の聴いている音楽は"何よりもダサい音楽"という認識で、興味は、よりオリジナルで、今までにない音楽に移っていて、アモン・トビンやDJ VADIM、コールドカット、FUTURE SOUND OF LONDONなどを好んで聞いていた。
当時、MTVから流れてくる日本語のラップはどこかで聴いたことあるようなノリの音楽ばかりだったので、私の興味の対象外であったし、唯一聴いていたものもDJ KRUSHのアルバムに入っているShin-Sekaiくらいだった。(それもあってRinoが今でも一番好きなラッパーだったりもする。)
当時、マイクロフォンペイジャーもブッダブランドも知らなかった私に、マイスペース経由で初めてビートの依頼をしてきたラッパーがハイイロさんだった。当時私は、自分のレーベルをやったり、国内のイベントにも出たりも多少、していたが、ハイイロさんはそれを知らなかったので海外の人だと思ってメッセージを送ってきていたらしい。
一番最初に提供したトラックはこの作品だった。ディスコ風のリズム隊を打ち込みで組み立て、様々なノイズや民族音楽、オールドスクールラップなどの断片をコラージュした楽曲だ。当時、私はヒップホップシーンなんてものには何の興味もなかったし、それから知ることになるとも思っていなかった。
■ヒップホップシーンへの幻滅とFORTE脱退など。
ハイイロさんとはその後、2011年、2012年に発売されたアルバムにも参加させていただき、2012年に私が自分のアルバムを発売するまでの期間、ハイイロさんの運営しているFORTEのクルーの方々とも仲良くさせていただいていた。
私のファーストアルバムはありがたい事にも国内のしっかりしたレーベルにサポートいただけたため、その分服装や、クオリティ・コントロールにも厳しかった。アルバムに参加したブランド・ヌビアンのSADAT Xに親や国内のヒップホップファン達は喜んだだろうが、私はどちらかというとZEROHとの楽曲の方が本望だったのだ。
同時期(2010年ごろ)に、私はゲイである事をひたかくしにしていたため、ラップバトルなどでホモ野郎などと罵りあう(今以上に、そういう言葉は簡単に使われていた。)現場に、辟易して、自己肯定感が保てなくなり、鬱となって、すべてバカバカしくなってやめてしまった。まわりは現場だリアルだなどと言っていたが、当時ビート・バトルで優勝するような音楽は何かの真似のような音楽ばかりだったし、ここは私の居場所ではないなと思ってしまったからだ。
自暴自棄になり、作っていたビート類を、適当な名義でニコニコ動画や2chなどに放出している中、出会ったのが、ハシシさんをはじめ、"ネットラップ"のラッパー達だった。電波少女のメジャーデビュー前、オンライン上で公開されたEP”廃盤”のころ、私はkerberosという名義でグループにも参加していた。(今やyoutubeやinstagram、tiktokが市場を動かしている世界線なので、そういう意味ではもはやある意味、全員ネットラップかもしれない。)
■ ハイイロさんと再会とその後。
音楽を続けていると音楽以外に嫌な事が色々あるもので、私はしばらく自分の信じているヒップホップ的な音楽を2015年くらいまでは続けていたが、それもとうとう面倒になってしまい、その後国内でヒップホップをやるのはやめてしまった。
LAのCOLD BUSTEDレーベルがそのタイミングで声をかけてくれたため、アルバムは発売していたものの、国内では名義を改めハウスなどを作っていた。(*唯一、ありがたい事にZIGOKU-RECORDのマサキオンザマイクさんが気にとめてくれていたのでその間2017年にEPを発売したが)
驚いた事に、知らないうちにハイイロさんも色々あってラップをするのをやめていたが、海外に作品発表の拠点をうつしていた私に、再度連絡をくれたのもハイイロさんだった。
2018年にお互いのリハビリ的に一本のカセットテープを作り、その後アルバム「Rappelle-toi (ラッペル・トワ、思い出せ)」(2019)を発表した。
この過程はとても実験的だった。お互いやりたいことは山ほどあったが、実力や経験が伴わないことなどもあり、何が今できる事なのかが手探り的なところもあった。
ある意味1からの出直しで、タイトル通り再起動であったが、私は、『ビートメーカーとしての自分』『プロデューサーとしてのニュートラルな自分』『今本当にやりたい音楽』の3つをそれぞれ別の形でアルバムの中で表現した。正直アルバム発売直前までプロデューサー名をすべて偽名にしてわけるかまよったほどだ。
中でもお互いの空白期間中、自分の得たものを全力でぶつけた楽曲『Problem』と『Believe』が一番思い出深い。
その後、完全復活後のセルフタイトルアルバム『HAIIRO DE ROSSI』(2020)につながる。
■ 8枚目のアルバム『The Time Has Come』に
リスナーの方には想像しづらいかもしれないが、音楽は産む苦しみがある。できたものすべてを自分の曲として認められる人もいれば、こんなのは自分の作品としては不出来だと考え、なかなか表に出せないタイプの人間もいる。私は割と後者に近いため、作れどもほとんどの作品は表には出ない。(作る量が多いのでそれなりに出ているが。)
そんな中、流通にのるフルアルバムを8枚目まで作ったのはすごい体力だとおもう。たいていのアーティストはアルバムを完成させられなかったり、数枚以降出せなくなってしまうからだ。
今回のアルバムで何よりも自分にとってリアルだったものは、壱タカシさんとのコラボや、ラッパーの椿さんのフィーチャリングなどだった。
まず、このアルバムを制作するにあたって、大阪で活動しているMoment Joonさんのインタビューにある、東京、さらには渋谷セントリックな音楽観の古さの指摘にかなり助けられた部分がある。
「現場」や「リアル」などの言葉が横行していた10年前、「渋谷」というフォーマットに受け入れられなければなかなかキャリアをスタートできなかったからだ。(今でもそういう所はある。)
一方で、壱タカシさんは、私と家が近所の、同じく同性愛者の知り合いを通じて、普通にバーベキューでいっしょだっただけの関係で、あとから曲をめちゃくちゃ作れる人だと知った縁だった。とはいえ、作曲力にポップセンスが激烈にイケていたのですぐにハイイロさんに紹介した。
これが8年前、私がフォルテを離れた時だったらこういう行動はとらなかったと思う。あるいみタイミングであるし、トシでもあるので、シーンから迎合されないなら自分の身を引くなんて言ってられなくなってきた部分もある。やはり音楽が好きなので、やりぬきたいし、こういう人間もいるんだぞと表立って発言できる今が「一番のリアル」であり、一番本質に近い音楽表現だと思っている。これはハイイロさんを通じてでないとつながる事はなかったがアルバムに椿さんが参加しているのも私にはとても心強い。
また、私が一時期自暴自棄になって音楽をやっていた頃に出会った電波少女のハシシさんとこのアルバムを通じて曲が一緒にできたことはかなり自分には印象強い事だった。今までフラフラ浮いていた足がようやく地に着いた感じがした。この曲は特にフックのメロディが素晴らしいのでぜひ通して聴いてほしい。
正直今回のアルバムで一番悔しかったのはOlive Oilさんだ。まだ一度も話したことはないが、お互い興味があることを勝手に突き進んでいるタイプの人間だろうから、交わることは全くなかったが、今回アルバムを通じて同じ黒い円盤の上に立つことになった。
母親が、まっさきに「今回のハイイロのアルバムはすごいね!」と送ってきたスクショがOlive Oilさんのトラックの曲であった。好みの問題はあるだろうが次回は自分のトラックで唸ってもらいたいものだ。
アルバムの最後には新しい生命の誕生とこれからを祈願して、短いインストトラックを寄贈させていただいた。動画を貼ったが、できればアルバムを飛ばさずゆっくりきいて、最後にこのトラックと出会ってほしい。
この曲がこれからのキャリアの再出発点になる事を祈って。
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