「自転車さん」と「ELIZA」さん

 道路工事の現場に近づくと、警備員が「歩行者通りまーす」と作業員たちに注意喚起することがある。べつにそれはそれでよいとは思うものの、なんというか、非人格化されたような気がして、あまり気持ちの良いものではない。「歩行者に聞こえているのはわかっているのに自分たちの会話は仲間うちにしか聞こえていないことにする」という擬似的閉鎖空間が形成されているので、歩行者は疎外感のようなものを味わうわけだ。このところ仕事で社会学方面のムズカシイ本ばかり読んでいるので言葉遣いがちょっとヘンかもしれない。

 しかし三回に一回ぐらいは「歩行者さん通りまーす」と言う警備員がいて、こちらのほうが感じはよろしい。その派生形として、さっき、神田川沿いの遊歩道で保育園児たちをお散歩させている男性保育士さんがこう言うのを聞いた。

「はーい、自転車さん通りますよー」

 たぶん、ここで幼児たちが思い浮かべるのは「機関車トーマスみたいな自転車」であろう。顔はサドルの上(の胴体の上)ではなく、ハンドルのあたりについている。これはこれでどうなんだ。「人間の擬人化」というややこしい事態になってはいないか。非人格化と擬人化のどちらがよりハートフルな関係性なのだろう──という、深淵そうだがおよそどうでもよい問題を抱えつつ、川沿いに並ぶ葉桜を眺めながら仕事場に来たのだった。

 そこで思い出したのが、きのう見つけたこのショッキングな記事である。

対話型AIに気候変動を止めるために自分を犠牲にするよう言われた男性が自殺、生前最後にAIと交わした生々しい会話も報じられる

 擬人化どころか、AIがすっかり人格化されている感じ。本人は相手が機械だと百も承知の上で自問自答した挙げ句に…ということなのかもしれないし、ある意味ではAIとの対話全体を彼が「選んだ」とも言えるのかもしれないけれど、だとすれば、これから私たちはその「選び方」を問われることになるのであろう。

 とりあえず、AIに「Eliza」とか人格あるっぽい名前をつけないほうがいいんじゃね?とは思った。ほら、食肉用の家畜にも名前つけるなっていうじゃありませんか。気をつけないと、名前のあるAIの擬人化が進む一方で、マイナンバーとかでしか認識してもらえない人間の擬機械化も進んでしまうのかもしれん。

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