およそどうでもいいエッセイのこと
あれは七月頃だったか、読みたいニュース記事があって、めずらしく週刊新潮を買った。読みたかった記事は思ったほど面白くなかったが、パラパラとページをめくっていたら、五木寛之御大の連載エッセイが目に留まった。
「ああ、まだあるんだなぁ」
と、シミジミしつつ読み始めたら、これが面白い。エレベーターの開閉ボタンにまつわる話から始まる、およそどうでもいいボヤキ節だが、読ませる。さすがだ。ローティーンの頃に五木寛之のエッセイ集(角川文庫)をよく読んでいた私は、たいへん得した心持ちになったのだった。
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おおまかな世情やシリアスな社会問題、あるいは声の大きな論争などは、SNSに流れてくるリンクを踏めばだいたい把握できてしまう昨今だ。しかしその一方で、「およそどうでもいいエッセイ」的な文章と出会えることはめったにない。ネット上に存在していたとしても、賛否を問うような刺激的な話とは違って、じんわりと読ませる淡々とした身辺雑記は「バズり」とは無縁だ。だから、なかなか遠くまで届かない。せいぜい知り合いの「いいね」がいくつか得られる程度だろう。
でも、そういう文章が私は好きだ。
ネットのない時代は、たまたま雑誌や新聞などで出会ったコラムやエッセイを面白がり、しかしどこかに感想を書くわけでもなく、ただちょっと儲けた気分になったものである。その場では、「はあはあ、ふむふむ、ほうほう」などと唸るだけで、「さて飯でも食うか」と日常に戻る。でも、そこで出会ったフレーズや着眼点や発想、あるいは文体などは、カジュアルな教養(?)として頭の片隅に残った。それが、いつかどこかで自分の発言や文章の中に顔を出すのである。「教養」というより「栄養」か。というか、教養の「養」は栄養の「養」なのだな、と、いまさら気づきました。
ともあれ、ネットだけ見ていたのでは、そういう栄養を摂取する機会があまり得られない。それではつまらないし脳が枯れてしまうので、もっと雑誌を読もう(かな)。衰退する一方だが、やはり雑誌は守らねばいかんのではないか。
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幸運なことに、私はこれまで三つの雑誌でコラムを連載する機会を与えられた。憧れていた仕事なので嬉しかったし、楽しかった。感想を言ってくれるのは担当編集者だけで、世に送り出した後はどれだけの人が読んでどんなことを思ったのか、わからない。でも、きっと誰かに届いている、という手応えはあった。
インタラクティブ(死語?)でスピーディなネットでの発信と比べたら、それは手紙を空き瓶に入れて海に流したり、風船につけて空に飛ばしたりするのにも似た迂遠な営みかもしれない。でも、そういうものだからこそ、読者のダイレクトな反応を気にして萎縮することなく、のびのびと書けたような気もする。目に見える(あるいは顔の見える)SNSの「つながり」は、私にはいささか窮屈だ。もっと遠くへ向けて書きたい。いや、もっと正直に「放置されたい」と言うべきか。
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紙媒体のコラムやエッセイは、語弊をおそれずにいえば「埋め草」である。あるいは「箸休め」か。もちろんそれが読者の購買動機になることも少なくはない(私もナンシー関やえのきどいちろうさんのコラムを読むために買っていた雑誌はいくつもある)けれど、今回の五木エッセイがそうだったように、基本的には「ついでに読むオマケ」みたいなものだろう。
ネットは、それが成立しにくい。あるニュースサイトでコラムを連載したとき、私はつい紙媒体と同じ「箸休め感覚」で取り組んでいたが、いま思えば、それはそういうものではなかった。読者には、すべてが単発記事として届く。そこが紙媒体とは大きくちがうところだ。ブログやnoteも然り。何かのついでに読まれるということはない。読み手はどこかでリンクを踏んで、そこに直行する。
それが、どうも、居心地がわるい。寄り道みたいに読みたいし、読まれたい。私がその方法を知らないだけで、ネットでもそんな「オマケ感」のある場を持つことはできるのだろうか。と、近頃はそんなことをボンヤリと考えている。