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「自分の欠損」を埋めながら生きること

4ヶ月くらい前のことだ。
後輩から飲みに誘われて二人でやけに店員さんもお客の声も通る、なんというか大学生感を抱かせる居酒屋で飲んでいた。

「先輩、相談があるんですけど...」
周囲の喧騒に、彼の悩みごと飲み込まれてしまいそうな声だった。
「相談?」と僕が返すと、「就活のグループディスカッションで皆に迷惑をかけてしまうんです。議論を破壊してしまうというか...どうしたらいいんでしょうか...?」と伏し目気味に後輩が返事をした。

少し詳しく後輩の話を聞いたあと、僕は考える時間欲しさにハイボールに手をかけた。薄いハイボールの味に不満を抱きつつ、後輩の相談にどう返すか決まった瞬間、彼の表情が目に入った。
普段は輝かせていたはずの目からは輝きが失われ、顎を下げて不安そうにこちらを見ていた。よくよく観察してみると、彼の表情筋はあまり発達していなかった。

「そうか、彼も今まで沢山の欠損を埋めてここまで来たんだ。」と彼の人生を悟ったような感覚になった。


欠損とは平たく言えば短所、強く言えば人間として足りていない部分と僕は理解している。
遅刻する際は時間も含めて連絡すること、怒ったとしてもそれを感じ取られるような発言はしないこと、相手を思いやって伝え方や言葉を選ぶこと、他人と話すときは笑顔で話すこと、間違えたら素直に謝ること、差別的な発言をしないこと、例を出すとこんなところだろうか。


思えば行く先々で、「お前の短所は~」とそれを正すように言われてきたように思う。上記の例の一部は、実際僕が正すように言われてきたことだ。
決まってそういう人からは「お前を否定しているんじゃなくて、お前のしたことを批判したんだからな、勘違いするなよ」と事後に伝えられた。僕はその言葉に免罪符のような側面を感じてモヤモヤしつつも、「すいません直すよう努力しますので、今後ともよろしくお願いします。」なんて返事をしていた。

とは言え自分が変化しなければ再び怒られたり、迷惑をかけてしまうと思い、本や論文を読み日常会話をすべて読んだことの実践に充てて必死に自分を変えようとしていた。正直、行く先々で欠損を指摘されていたが故に、心身ともに疲弊していたんだと思う。

就活をするようになってから、優秀と言われる学生や社会人と話す機会も増えた。今こうやって「欠損」について振り返ると、彼らの言う「努力」の多くは「自分の欠損を埋めること」が多かったように思う。
大体が「○○(姿勢や能力)が無くて△△ができなかったが~という努力をして達成できた。」という文章構造になっていた。

そして優秀と言われる学生や社会人と仕事をするようになると、他人や僕に対して欠損を指摘して変化をするように求めている姿を目にすることも増えた。そして「我々は当たり前のスタンダードが高いからついてこい」と言っていた。新しくコミュニティに入ってきて、そのテンションについていけない人の目は皆死んでいた。

最近...と言ってもここ十数年「多様性」という言葉が様々な場所で謳われている。
どのセクシュアリティを自認するか、どのような宗教を信仰するか、結婚してどのような働き方をするか、といったことについて個々人の自由や価値観を尊重するムーブメントが強くなっている。少しずつeスポーツや、精神に困難を抱えている方に見受けられる特異な才能といった「何が得意か」ということも「多様性」の枠組みに含まれるようになった。

では、「何が不得意か」は「多様性」の枠組みに含まれないのだろうか?
朝起きるのが苦手、LINEするのが億劫、間違いを犯したときに素直に謝れない、他人と笑顔で話せない、そんな人だって世の中に当たり前のようにいて。そのような「個性」を直す必要も、それを直すように周囲が求める必要もないのではないか。

性別や宗教といったラベルの多様性は認めつつも、個人の不得意=欠損を認めない、というのはそれはそれで、差別と言われても否定できないのではないか?
きっと「そんなことはない!」と主張する人もいるのかもしれない。

しかし「何が得意か」ということが、あるコミュニティでは評価されなかったが、別のコミュニティでは評価されるというように、「不得意なこと=個人の欠損」もコミュニティによって評価が変わる。
であれば、「個人の欠損を埋めるように求めること」の根拠は、そのコミュニティにおける常識が理由なのだろう。それでは「女性が社会進出するのはおかしい」と考えていた明治時代のコミュニティが持っていた発想と、根本的には変わらない。
きっとこれは、自由を愛してやまない僕らに知らず知らず根付いた矛盾なのだろう。


それでも、たぶん、欠損はもっと愛していい。できないことは愛されていい。


おばけが苦手な彼女が愛おしく思えたり、クレープを食べたときに鼻にクリームがついた彼がどうしようもなく可愛く見えたり、普段完璧に見える人の弱点が垣間見えたときに親近感が湧いたりと、きっと僕たちは他人の欠損を指摘して完璧であることを求める一方で、不完全さに助けられたり、仲良くなるきっかけをもらったりしている。

もしかしたら、欠損という存在が僕らに「愛情」という感情があることを、再確認させてくれているのかもしれない。

自分の欠損も他人の欠損も愛して、愛することができなくても認めることができたとしたら...
不用意に互いの「欠損という個性」を傷つけあって、疲弊することも日常から少しずつ減っていくのではないでしょうか。



だから「自分の欠損」を埋め続けて苦しんでいた後輩には、「それはできなくてもいいんじゃないかな。人生を長期的に見て、もし直した方が自分が楽だなって思ったら直そうよ。ずっと埋め続けて大変だったよね。」と、そんなことを伝えた。
その言葉が正しかったのかは分からないけれど、彼の目に少しだけ生気と輝きが戻ったように見えた。

P.S.
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