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8 1/2

映画とは、あくまで世界の不完全な再現に過ぎない。役者の演技、衣装、小道具、台詞、照明、音響、といった構成要素は、それぞれ世界の一通りの解釈を示す記号であり、世界そのものに対する代替品としてスクリーン上で像を結ぶ。それは、味覚/嗅覚/色覚/触覚を欠く夢のように、ふらりと立ち現れた虚像である。我々は外界から隔絶された暗い部屋に自ら入り、その虚像を見つめ続けている。

自身の分身ともとれる映画監督グイドを通してフェリーニが吐露したのは、夢想・回想を含んだ現実世界を、映像という記号を通じて再現することの空虚さであった。林檎を見たことのない人物に“林檎そのもの“を伝えるために「林檎は赤い」という言葉を尽くす、その時点で林檎の黄色や緑がかった部分は捨象される。その色味を感じるために描かれた巧妙な模写であっても、林檎の重さや酸味を伝えることは無い。林檎は見られ、触れられ、食べられることによってしか、林檎たりえない。フェリーニ『8 1/2』は映画芸術の限界に直面した一人の男の敗北の宣言であると同時にその呪縛からの解放を示唆している。

交通渋滞に巻き込まれた車内をガスが満たしていく。車の中の男は窓を叩くが、脱出はできない。周囲の人間は微動だにしない。いつの間にか男は車の上に立ち、天へと登っていく。空を自由に飛んでいる男の足には凧のように縄が結ばれている。浜辺にいた男がその縄を引っ張り、男を地上へと引きずり戻す。次の瞬間、グイドは大きく息を吸い目覚める。一連のシュールレアリスム的な場面が夢想であったことがここで明らかになる。

『8 1/2』は、グイドの精神的な彷徨を映画内現実のレベルだけではなく、妄想/夢想/回想/構想/批評も含めて表現する。そのレイヤーは非常に複雑に絡み合っており、一つ一つの層を切り離すことはできない。映画のプロットを逆行しなければシークエンスの意味が明らかにならない構造と、グイド自身のパラノイア的な性質が相まって、この作品のどこまでが現実(実際に起きたこと)で、どこからが非現実(実際に起きていない)ことなのか、その境を規定することが出来ないのである。映画が進行するにつれ、作中人物のセリフによって行われるメタ批評も飲み込んだ螺旋状の構造物の全貌が明らかになっていく。自身の幼年時代(特にカトリックとの関係)にまつわる屈折した感情、母性に対する憧憬、無垢なる美に対する信仰(とそれに対する恥の感情)が、飛び飛びにスクリーン上には現れ消えていく。作品中盤、サウナの列に並ぶプロデューサーはグイドの製作に対する姿勢を以下のように批判する。

君が描きたいことが分かった 人間の内なる混乱だろ もっと明確に描かないと理解されない 誰もが興味を示すように描け 客が理解しなくてもいいと?悪いがそれは高慢というものだ 

この言葉はもちろん『8 1/2』に対する批評になっており、作中人物の言葉はスクリーンを飛び出し、作品の内側と外側を循環する。この批評が繰り出されたのち、湯治の場に妻であるルイザが現れ、グイドは愛人と妻との板挟みに苦しむこととなる。派手な衣装に身を包み芝居がかった身振りをする愛人と、白いシャツに黒いフレームの眼鏡をかけた妻の様子は対照的である。テラスで愛人を見かけた妻がグイドを叱責する場面は非常に示唆的である。

頭が変になる 誠実な振りをして 正論を吐くなんて よく平気でいられるわね嘘ばかりついて 真実を悟らせない 嘘も真実も同じなのよ

浮気を嗅ぎつけた妻ルイザがグイドに放つ「とんでもない嘘を、さも本当のように言ってのける」という叱責は、グイドの夫婦関係に関する罪だけではなく、記号を用いて巨大な虚構を作り上げる映画監督としての罪も暴いている。グイドの妻と愛人との間の葛藤は、真実と虚構の間で揺れ動くフェリーニ自身の精神的葛藤の現れである。そしてその葛藤をフェリーニは映画だからこそ可能な魔術的な展開と、ハーレムの生成によって乗り越えようとする(結果としてその夢想は自身の新たな罪を暴いてしまうことになるが)。

カメラ・テストの場面でも、本作品これまでの場面が違う役者によって演じられるという虚構性の強調がなされ、ルイザもそれを断罪するセリフを重ねる。

あれは映画 新しい嘘! 都合よく人物を並べても 真実を知ってるのは私だけ (中略)好きに撮ればいいわ どうぞ 自己満足を! “名監督”と言われて 人に何を教えるの? 一緒に老いた妻にも真実を言えないのに 呼んでくれてよかった 決着をつけるべき時よ 私はもう後戻りしない うんざりだわ!

そこに第三の女性、クラウディアが現れる。無垢な笑顔を向けるクラウディアだが、グイドにはその笑みが“からかい“なのか“赦し“なのかが分からない。グイドは行き詰まった自分自身を救う泉の少女をクラウディアに重ね合わせるが、クラウディアはグイドの構想に理解を示さない。ここで彼の救済の可能性は完全に否定される。「もう嘘の物語を作りたくない」「ここで全て終わってもいい」と述べるグイドはプロデューサー達に宇宙船の発射台へと連れられる。

創作への罪悪感に加え、ジャーナリスト達の質問やプロデューサーの圧力、ルイザの幻影に追い込まれたグイドは、左のポケットに入っていた拳銃で頭を撃ち抜く。ここで描かれるのは、それらの圧力からの解放表現者としての死、そしてグイドの転生である。次の瞬間、何事も無かったかのようにセットを歩くグイドのカットが映し出されるが、その頭の中には以前のような混乱はなく、静かな天啓に満たされている。

全てが元に戻り 全てが混乱する この混乱こそが私なのだ 夢ではなく現実だ もう真実を言うのは怖くない 何を求めているかも言える 生きてる気がする 恥を感じずに君の目を見られる 人生は祭りだ 一緒に過ごそう 言えるのはこれだけだ 理解しあうために今の僕を受け入れてほしい

この言葉がルイザに受け入れられることで、映画は大団円を迎える。これまで作中に登場した人物達が白い衣装を身に纏い、次々と階段から降りてくる。グイドは静かに枢機卿の手にキスをする。人々は輪になって踊り、グイドとルイザも手を取り合ってその列に加わる。楽隊を指揮するのは少年時代のグイド自身である。ここでは自身を苦しめ続けた嘘と混乱が、自身にとっての祝祭となって立ち現れている。真実と虚構はスクリーンの外の言説も取り込みながら渾然一体となって、観客に新しい世界を提示している。この新しい世界は、現実には決して現れることがない。映画だからこそ表現出来た特別な虚像である。“人生は祭りだ。共に生きよう。“というあまりにも有名な言葉は、映画の限界と不可能性を認めつつも、それをも引き受けて人生を前進させること、記号にしか過ぎない映画という虚構を愛することの高らかな宣言である。フェリーニは映画の虚構性、自身の罪を受け入れることによって、その限界を拡張し、現実では見ることの出来ない夢を我々に体験せしめたのである。


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