袖を通した時のフィーリング。身体へのフィット感。まるで何も着ていないかのような感覚になるデッコーロウォモのパイロットシャツ
STORY Vol.09 – 大西 誠 氏
初めてdecollouomo(デッコーロウォモ)のシャツを着た時に思ったのは、肌触りがソフトで着心地がとても良いことです。開発された素材concorde(コンコルド)は肌離れが良いので直に着用しているのですが、衣類内気候が安定しているので、ムレ感や冷え感を感じずにいつも快適に過ごせています。
オフィスでのデスクワークから、国内外の店舗まわり、ピッツァ作りまでアクティブな毎日を送っていますが、decollouomo(デッコーロウォモ)のシャツは機能性が高いので、朝から夜まで一日中着ています。通気性がとても良く、汗を素早く吸って拡散してくれるので、お店に入ってピッツァを焼いている時でも過ごしやすかった。まるで何も着ていないかのような感覚で、体も動かしやすいし、軽くてしなやか。今まで僕が着てきたシャツやポロシャツ、Tシャツよりも断然着心地が良いですね。
また、このパイロットシャツのデザインも良いですね。見た目だけではなくシルエットも立体的で綺麗ですし、袖をロールアップしてベルトでとめられたり、両ポケットにちょっとした物を入れられたりと実用性も高い。エレガントなスーツコーディネートのためだけではなく、アクティブさや表現力を持っている。decollouomo(デッコーロウォモ)のシャツは、シャツとしての存在感を保ちながらも全く違う価値観をもたせてくれる。シンプルなメンズ服だからこそ、クオリティと実用性が大切ですよね。僕は日頃カジュアルなスタイルが多いので、シャツだけではなくポロシャツやTシャツもあったら嬉しいです。今後の研究開発によって、decollouomo(デッコーロウォモ)が更なる進化を遂げていくことを楽しみにしています。
料理の鉄人を観て志した食をつくるという夢
日本一の桜の名所として知られている奈良県の吉野という山の中で育ちました。
実家が化粧品の販売をしていて両親が共働きだったので、代わりに兄弟の面倒をよくみていましたね。3歳下の弟と10歳離れた妹がいるのですが、僕は小さい時から料理をつくることが好きだったので、学校から帰ってきたら家族のために食事をつくっていました。よく兄弟でたこ焼きパーティーをやったりしていましたね。高校生になってからは、近くのゴルフ場のレストランでアルバイトを始めました。そのレストランには中華・イタリアン・和食があって、僕の担当は中華。当時はTV番組「料理の鉄人」の最盛期だったこともあって、食をつくるという職業に対して憧れを抱いていました。とくにイタリアンのシェフをいつも見ていて、格好良いなあと羨ましく思っていましたね。
卒業後は専門学校に通うか働こうか悩んでいたのですが、専門学校に通うには学費がかかりますし、あまり余裕もなかったので就職することに決めました。様々な業態の飲食店を運営している会社に就職したのですが、配属された先はまたゴルフ場のレストラン。担当は和食。そこで1年働いたのですが、もともとイタリアンに興味があったので会社を退社し、大阪のイタリアンレストランで修行を始めました。そして、22歳の時に上京して新宿のお店で働きました。当時の夢のプランとして、地元の奈良から大阪>東京>イタリアとキャリアを積み上げて、最後に自分の店を出したいと考えていたので、その思い描いたプランに沿って地道に歩んでいました。
師匠ガエターノ・ファツィオとの出会いから、外国人初となる世界一へ
東京で働いている時、修行の一環として先輩達によく他のお店へ連れて行ってもらっていました。その中で、柿沼さんという先駆者がやっていた中目黒のSAVOY-サヴォイという有名店で、ナポリピッツァを食べたことがあったんです。その生地にとても感動しまして。表面はカリッとしていて中はもちもち。香りが良くて味のある美味しい生地でした。どうやったらこんな生地がつくれるんだ?ナポリピッツァというものに完全に魅了されて、こんなピッツァをつくってみたい!とピッツァ職人への道を決めました。その頃、イタリアに行って修行している後輩が何人かいたので、僕もイタリアへ行こうと。イタリア語も話せず、お金もなかったのですが、美味しいものをつくりたいという情熱だけで行きましたね。まずはナポリピッツァを学びたいと思って、本拠地のナポリを目指して。イタリアの料理はほとんどが地方料理なので、ナポリのあとはフィレンチェ、ミラノ、ベネチアなどをまわって色々な料理を学べたらと考えていました。
しかし、探しても探しても働かせてもらえる店が全然見つからず、もう諦めて帰ろうかと葛藤していました。そんなある日、駅のホームで一人のあるイタリア人医師と出会ったことから状況が変わった。ナポリ湾にあるイスキア島に連れて行ってくれて、そこで師匠であるガエターノ・ファツィオと出会ってナポリピッツァを勉強させてもらえるようになリました。イスキア島はナポリ湾に浮かぶ海と温泉と美食の島で、この魅力溢れる島には世界最高峰の彼のピッツァを求めて世界中から美食家たちが集まります。その彼の店は「ピッツェリア・ダ・ガエターノ」。トラットリア(trattoria)で1年下積みした後、ダ・ガエターノでピッツァ職人として修行を始めました。それから間もなくして、世界最高峰のピッツァの祭典「PIZZA FEST」に出場できる機会があって、外国人初となる個人最優秀賞で世界一になることができました。外国人が世界一になったことでテレビなど沢山のメディアで取り上げられたので、ダ・ガエターノは連日大盛況。師匠ガエターノ・ファツィオに恩返しをすることができました。それからは、ナポリピッツァは僕がやらないといけないんだなという気持ちにもさせてくれましたね。職業として。
ずっとイタリアンのシェフでやっていこうと思っていましたが、このナポリピッツァとの出会いで、ピッツァ職人(ピッツァイオーロ)という職業を日本に広めていこうと決めました。イタリアンのシェフとピッツァのシェフは違う。それぞれのお店にピッツァ職人(ピッツァイオーロ)がいてイタリアンのシェフより給料が高い。僕がナポリにいた時はそういう位置付けでした。伝統を守り、職人の手でピッツァを作り、薪窯で焼くから美味しいピッツァができます。生地の発酵からナポリレシピのトッピング、約450度の薪窯で焼き上げる技術は特別なものです。日本にも有名なマエストロはいますけど、ナポリのピッツァ職人(ピッツァイオーロ)みたいに子供の頃から修行しているわけではないですから、私たち日本人ピッツァ職人(ピッツァイオーロ)はどれだけ年月をこなすか、どれだけ数をこなすかが大切です。毎日が勉強だと思いますし、そこから知り得ることがあり、どれだけ美味しいピッツァをつくれるかを追求していく中で色々な知識を習得していく。そして、師匠のガエターノ・ファツィオや、その世代の魅力的な人達が沢山いて、僕たちの職業がある。ピッツァ職人(ピッツァ イオーロ)という職業の名がつくのは、料理業界でも少ない確立されたものです。毎日焼くピッツァ1枚1枚が日々違うもので、ガラス職人や陶磁器の職人などとも変わらないものだと思っています。ピッツァ作りは職人の心を写す鏡。日々のコンディションがピッツァに出るし、作り手の内面的な感情でも味が変わる繊細なものなのです。怒っていたり悲しんでいたりする時は、なぜか良いピッツァがつくれない。焼いた時、カットした時にわかりますね。すごく繊細で難しいところがあるんです。そういう特別な技術をもったピッツァ職人(ピッツァイオーロ)という職業を、これからももっと日本に広めていきたいですね。
サルヴァトーレ・クオモとの出会い
イタリアから帰国して友人の家に居候していました。ナポリで働いている時は修行だったので、賄いと住む部屋は用意してくれましたが給料はもらえませんでした。世界一になった時からちょっとずつもらえるようになったくらいです。改めて東京で生活していくために仕事を探そうと、仲の良い食品問屋の営業マンに働ける店を紹介してもらっていました。何社か面接している中で、サルヴァトーレ・クオモと永田町の店で出会ったのです。ピッツェリア「SALVATORE CUOMO」が、イートイン+デリバリーという形態のお店を展開していくという新事業スタートの時でした。面接の時にピッツァを食べさせてくれたのですが、それが美味しくなかった。。後から聞いたらランチも終わっていた時間で、残っていた生地もあまり良くなかったらしいのですが。しかし、僕はもっとこの店のピッツァを美味しくしたいと思って即入社を決めたんです。当初は、ピッツァをつくり直したら、1年くらいで辞めて自分の店でもやろうかと思っていたのですが、いつの間にかどっぷり14年やってますね。入社して1号店となる白金台店から店舗展開をスタートしてきましたが、現在は国内外で85店舗を構えるようにまでなりました。
デリバリーを始める時は、周りから「何でやるの?イートインだけやればいいじゃないか」とよく反対されましたね。ナポリではほとんどがテイクアウト。近くだったらデリバリーもしていたくらいです。働いていたダ・ガエターノでも30%がイートイン70%がテイクアウトでした。イートインの場合は+席料をとるので、テイクアウトの方が安いのです。だから、「SALVATORE CUOMO」のイートイン+デリバリーという形態は、本場のピッツェリアと一緒の展開の仕方ですから僕は賛成でした。ピッツァ職人(ピッツァ イオーロ)は数をこなすことが第一なので、たくさん売らないといけない。デリバリーで売れればその分ピッツァもたくさん出る。1日100枚以上売るイートインの店は本当に繁盛店じゃないとありませんからね。毎日100枚以上、200〜300枚、400枚と焼くことは本当にしんどいですが、そこから学ぶことはとても大きい。そのためにはたくさん作って、たくさん売らないといけない。それをどう考えるかですね。ピッツァ職人(ピッツァ イオーロ)を育て、美味しいナポリピッツァを提供し続けていくためには売り口を広げることが大切だと思います。その中で、厳しい指導のもとで経験を積み、常に真剣勝負でピッツァと向き合っていく。そうやって世界最大級のピッツァ職人集団と言われるようにまでなりました。今やうちのピッツァ職人(ピッツァ イオーロ)は、「SALVATORE CUOMOの宝」です。
2003年に個人最優秀賞を受賞した後も、PIZZA SALVATORE CUOMO TOKYOチームとして2006年から「PIZZA FEST」に出場しました。サルヴァトーレ・クオモと一緒に考案した「“D.O.C” ~ドック~」で、テクニカル部門最優秀賞をはじめ3年連続受賞を決めました。本来のDOCと何が違うかというとトマトの扱い方。普通は少量のトマトソースを塗った生地にスライスしたトマトをトッピングしますが、「“D.O.C” ~ドック~」は、生地にトマトソースを使用せず、トッピングには完熟チェリートマトを丸ごと使用。切れ目を入れてタネを抜き、塩を入れて甘さを引き立たせています。マルゲリータのトマトソースを具材の完熟チェリートマトに変えただけのシンプルなピッツァです。
「SALVATORE CUOMO」は、陽気で賑やかな食空間でカジュアルにお楽しみいただけます。イタリアンレストランに行くのは気軽じゃないですが、ピッツェリアにはフラッと入れる。毎月1回行ける店じゃなくて、毎週でも行ける気軽でラクな店をつくっていきたいという想いで今までやってきました。家族連れやおばちゃん会とかそういう使われ方が良いですね。小さなお子さんがいると店選びに気を遣うものですが、「SALVATORE CUOMO」はいつでもウェルカムです。家族や友人、恋人と一緒に美味しいナポリピッツァを食べながら楽しい時間を過ごしてほしいと思っています。圧倒的な存在感の薪窯で焼き上げるピッツァ職人(ピッツァ イオーロ)の見事な手さばきは、目にも楽しい一品です。「PIZZA FEST」を勝ち抜いた「“D.O.C” ~ドック~」や人気NO,1の「マルゲリータ」の深い味わいを是非おためしください。
日本ナポリピッツァ職人協会設立。ピッツァ職人(ピッツァイオーロ)の地位向上と普及活動のために
ナポリピッツァは色々なシーンで食べられるものなので良いですよね。老若男女に食べてもらえるヘルシーなもので、子供からお年寄りまでほとんどの人が好き。子供たちが美味しいピザを食べてくれているのが一番大事なことです。次に続いていく世代に、安心安全に、より良いものを食べてもらえる。その子供たちが大きくなったら、自分の子供たちにまたそれを食べさせる。この仕組みがスローフードの精神です。ナポリピッツァはその精神に則っている食です。2017年、ユネスコ世界無形文化遺産に「ナポリピッツァ職人の芸術的な技」として認定されました。この14年でナポリピッツァは日本に浸透して日常食になりつつありますが、これを機に、更により多くの人達に知ってもらえるようになると嬉しいですね。
ピッツァ職人(ピッツァ イオーロ)の地位向上と、ナポリピッツァの普及活動のために日本ナポリピッツァ職人協会を設立しました。設立する前から、有名なピッツァ職人たちと集まってよく飲み会をやっていたんです。折角こうやって集まっているのだから皆の力で何かできないか?と思い、元々あったナポリの協会を日本にもってきてスタートしました。まだまだ十分なことができているわけではないですが、毎年開催しているピッツァ職人大会など徐々に活動の幅を広げています。日本におけるナポリピッツァの歴史はまだ20年くらいのもの。大御所という人もそんなにいないので、フラットに仲良くみんなでやっています。こうした情報交換や話し合いなどができるコミュニティーが大切ですし、そうすることで日本のナポリピッツァの技術が上がっていく。職人の腕が上がっていくだけではなく、食べる人達の感覚も一緒に上がっていくと良いですね。美味しいお店がもっと増えていくと、何が美味しいのかというものをもっと理解してもらえるようになるので、そのためにも頑張っていきたいですね。将来的にはセミナーやスクールをやったりと、若い新しいピッツァ職人(ピッツァ イオーロ)を志す人のためにやっていきたいと考えています。
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