映画「ファイナル・アカウント」を観て
1910年代に生まれたドイツ人は、当然のごとく思春期や若者としての時代をナチス党が政権を握るドイツで過ごします。
失業が溢れ経済的にも厳しい時代だった頃に出てきたナチス党は、若者達にとってまるでその困難な時代を救うヒーローの様に感じた事でしょう。
そんな10代後半にナチス親衛隊等に所属していた彼らも今は高齢者となりました。
彼らに対するインタビューを中心としたドキュメンタリー映画「ファイナル・アカウント」を観てきました。
最初は、彼らが受けた教育や、若者にとってナチスがどれだけ魅力的だったかが語られます。証言者の親達は子どもがナチスに関わる事を心よく思ってなかったという事も興味深く聞きました。
でも、
はい。最初は正直「退屈な映画を選んじゃった。寝ない様に頑張らないと」って思ったんです。
それが、今、思い出しても涙が出てしまう程衝撃を受ける作品になるとは、思いもしませんでした。
武装親衛隊と言って特に優秀な青年達だけで構成されたエリート組織に入隊できた誇り。忠実にドイツ国防軍兵士としての職務を務める勤勉さ。駅の貨物輸送を担って駅に住んでいた家族の見たもの。収容所があった村の住人のうわさ話まで、色んな方々のインタビュー映像を通して、その時代が語られていきます。
そした、だんだんとインタビューは収容所へと迫っていきます。
「人間をあのように扱ったなんて恥」
「直接は手を下していない」
「村の誰もがあの事には触れない様にしていた」
「収容所から逃げてきた人を通報した。その人がどうったかを考えもしなかった」
「600万人を殺したなんて馬鹿げている。あいつらが言っているだけだ」
「なぜ誇りを捨てなければならないのか」「貶められている様に感じる」
「わたしには関係がない」
「そこに罪があるのか神様にしか分からない」
高齢者の方々から語られる言葉は、肯定・否定、拒絶と色んな立場なのではありますが、どれも共通していると思った事があります。
それは「彼らがとてもその事実に傷ついている事」という事でした。
この映画のタイトルファイナル・アカウントの「アカウント」または「アカウンタビリティ」という言葉は、元々は「人が死んだ後神様の前に自分の行いを説明しなければならない時の事」と聞いたことがあります。
彼らは自分では説明のしようも無いほどの大きな事実の前にある人は戸惑い、ある人は拒否し、そしてある人はせめてその行いを正そうと行動していました。
自己弁護をしたり、ヒットラーの支持する立場の人までこの映画に出演しているという事は、すでに平均寿命を超える年齢となった彼らが、なんであれ語る事を是としたという事、そして覚悟を決めた「最後の説明」なのかもしれません。
途中、右翼的な思想の若者達と、ナチスの親衛隊だったことを悔いている老人が議論するシーンがあります。
若者にとっては自分がやってもいない事で、国を恥じなければならない事というのは屈辱的なことです。戦後世代の日本人である僕も若者達の気持ちは分かります。
議論は激昂します。お互いの話を全く受け入れることが難しく感じるほとに。
ですが、落ち着きを取り戻した後、その老人は語ります。
「ただ、ユダヤ人だというだけで、ある女の人が殺されることを正しいと思うか」
「それに違を唱えることが出来ない社会を正しいと言えるか」
「色んな考え方や思想はあるかも知れない」
「でも目の前に起きていることから目を逸らすな」
「目をくらまされるな!」
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過去に行われた正しくない行いは世界史をながめた時に数限りなくあります。なぜその時の人がその様な行動をしてしまったのか。違う時代に育った者としては理解が難しい事も少なくありません。
その事に対して正面から向き合った映画。
何が真意なのか、彼らの責任とか罪とかに対して、ただ石を投げる事が出来れば楽だったのに、それを許さない映画でした。
#ファイナルアカウント
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