【序】十河信二物語

 これは、ある明治男の百戦百敗の物語である。

 この男の人生の実働期は、長い。明治の日露戦争の時代から昭和の高度成長期までの長きにわたった。
 日露戦争勃発の年に二〇歳。大東亜戦争敗戦のとき六十一歳。鉄道省官吏、帝都復興院局長、満鉄理事、大陸の国策商社社長、そして敗戦のときは愛媛県西条市長……。獄舎につながれ、職を失い、事業に失敗し、戦争にまみれ、友を喪い、数え切れぬほどの挫折を重ねて、結局のところ、この男の夢も、愛する国も、ことごとく敗れ去った。
 だが、戦後、不死鳥のように甦える。昭和三十年、七十一歳のとき
請われて国鉄総裁となり、二期八年を勤め上げて、大仕事をする。
 そして、勝った。
 奇蹟というべきかもしれない。
 そのまさかの勝利の置き土産が、東海道新幹線である。
 十河信二。
 そごうしんじ、と読む。この男がいなければ、新幹線は断じて実現
していない。
 もっとも、新幹線が晴れて開業する前に、十河信二は国鉄総裁の椅
子を去った。いわば、追い落とされた。その意味ではこの怪男児の最
後の大勝負も、辛く判定すれば、引き分けだったのかもしれない。
 
 「ぬえ」という伝説の怪鳥がいる。
 「鵼」あるいは「鵺」と書く。頭はサル、胴はタヌキ、尾はヘビ、
手足はトラで、鳴き声はトラツグミに似る。この男の百戦した相手は、
「日本近代」という名の鵼のごとき怪鳥だったといえるかもしれない。
 もっとも、この男自身も「鵼」の近縁種だったといっていい。少年
の頃は「象」、学生時代は「熊」、官吏の頃は「猪」または「風鈴」、
満鉄理事時代は「大陸の虎」または「釣鐘」、国策商社時代は「猛牛」、
国鉄総裁時代は「雷親父」あるいは「古ダヌキ」または「ライオン」、
引退後は「ロバ」などと呼ばれて、実に正体がつかみにくい。
 ただし、最後に一度だけ勝った。
 奇蹟というべきだろう。
 
 手もとに一枚の写真がある。
 昭和五十一年の『季刊中央公論』のグラビア巻頭ページを飾った写
真で、十河信二の最晩年の面構えが写し出されている。後輩の国鉄総
裁就任を激励する会の壇上で、一席ブッているところを撮影したもの
で、このとき、九十二歳。耳には補聴器。分厚い眼鏡越しにのぞく眼
は腫れ上がって、いかにも重たそうにみえる。
 だが、見るからに、無骨。苛烈。何事かを弁じているその口元は、
吼え猿のごとく大きく開かれ、一六〇センチ足らずの老躯の内部には
なお熱誠の血液がたぎり続けていたことがうかがえる。
 左手人指し指を立てるのは、得意のポーズであった。指を大きく上
げ下げしてリズムをとり、かん高い、しかしよく通る声で弁ずる。佳
境に入るや、この左手は頭上高く振りかざされ、その声は、百獣の王
ライオンが吠えるがごとく響き渡ったと伝えられる。
 ネクタイは、GUTTIである。死ぬまで天下国家を論ずることだけを
何よりの楽しみとして、およそ趣味というものに縁の無かった頑固ジ
ジイにも、案外、洒落心があったものと思われる。
 この「咆哮する九十二歳」をカメラに収めたのは、写真家の細江英
公氏である。細江は次のような撮影時のエピソードを書き残している。
 初対面のとき、カメラをかまえながら、細江はこのように話しかけ
た。
 「帝大を卒業したとき、何を考えましたか?」
 「……日本をどうするか、だな」
 と言って、ギロリとレンズを睨みつけた。
 数日間の密着取材を終えて、いよいよ東京駅で別れるとき、細江は
最後にもう一度レンズを向けた。
 「……九十二歳の今、何を考えていますか?」
 「この国を、どうするか……だよ」
 「帝大を出たときと同じですね。ほかにはないんですか?」
 と、シャッターを切り続ける。
 「ないな。ほかに考えなきゃいかんことがあるかね」
 老十河信二は、大きくひと息ついてから、
 「しかし、この年では、もう何もできないな。目は見えず、耳は聞
こえず、鼻は効かず、涙ぽろぽろ、涎たらたら……。これが、いまの
僕の心境だよ」
 と、笑った。
 それは、老人の自嘲の笑いではなくて、凛乎(りんこ)とした信念の笑みであったはずである。
 
 物語は、遠く明治中期の瀬戸内小村からはじまる。
 なにしろ、この男の実人生は長い。明治、大正、昭和というこの国
が七転八倒した百年を、この男もあわただしく浮きつ沈みつしながら
どたばたと駆け抜けた。
 双葉の季節から幕を開けることをお許し願いたい。


晩年の十河信二