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好きと崇拝

作品に猛烈に惹かれたものは、その作者やその環境がどうであれ「作品」しか興味がない。その人が作り出すものだから全部好きとはなれないのは私が狭量なのかもしれない、でも好きと崇拝は違うんだよなとポツポツ思う週末。

昨日の夢は最悪。昼間に「友罪」という映画を観た残像(?)とコバエ処理で排水溝掃除に使ったモコモコ泡が出てくる洗剤が見事にミックスされた夢で、私は自分のいい加減さと事なかれ主義な所がモロに出て罪人になってしまう....という夢だった。この罪人になってしまう形の夢を見る頻度は高め(家族比)なのだけど何度観ても慣れない。後味は非常に悪くて起きた時の「こ、これって夢....だったよね?」という確認作業は毎回ドキドキする。きっと心臓に悪い。夢見も悪く寝坊もした休日はなんだかエンジンが掛からず今日は一日作業しつつドラマを見る日になってしまった。

イアリー 見えない顔』というドラマをparaviで視聴。最終話を残してタイムアップ。TVは野球中継にバトンタッチ(夫が順番待ちしていたため)。続きが気になる。週末までには観てしまおう。

このドラマも重くて苦いドラマで最終話が非常に気になる。この気になる気持ちを抱えて眠ったらまた罪人になる夢を観てしまうかもしれない(笑)。

このドラマの中での「宗教」は大きな鍵になる。何かを信じてそれまで八方塞がりだった人生や価値観から救われる事は確かにある。でも信じる事と崇拝して思考停止してしまう事はまた別物だ。現実を受け止めるのはしんどい事だ。でも自分の思考を誰かに預けてしまったら、たとえそこで「幸福感」が得られたとしてもそう感じてる自分はもう自分じゃないのかもな、と。

同じ事が好きと崇拝にも言えるのだと思う。芸能ニュースで俳優の私生活が何度も報じられるけれど俳優の仕事は演じることだ。素晴らしい演技をしていたら私生活云々はこの俳優をいう仕事には何の支障もないはずだろう。マルチに活躍するアーティストが歌で評価されて俳優業もした時に、その演技が今ひとつだったらその部分は評価しなくても良いのだろうと思う。もちろん、そのアーティストそのものが好きなのであればどんな仕事をしても応援するんだろうけれど、少なくとも私はそうはなれない。ああ、やっぱり狭いな、私の好きは。

だからその「好き」ポイントが今の私に引っかからなければ、好きだった履歴は全く関係なく「普通」に変わる。寂しいけれど惰性で好きを続ける方がしんどい。

それだからか、人間関係ではこの「好き」ポイントがどうもうまく言い表せない。ピンポイントでここが好きと言える人とはもれなく長く続いておらず、言語化出来ない部分での心地よさが残る人が結局長く付き合ってくれいるように思う。でも私は心地良いけれど相手方は寛容で相当我慢しているかもしれないのだけど、心を見る視力も弱い私にはその辺がうまく見えない。とにかくも懲りずに付き合ってくれている人に感謝ばかりだ。

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さて、今日の分。

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ストレッチ中心なのだけど、中でも「ラクダのポーズ」が絶望的に出来ない。かかとまでの距離が遠すぎる.....。

あと。

やっと手に入ったベビーパウダー。この香りは赤ちゃんがグズらずに眠れるらしい。私は嗅覚がまだそのレベルらしくこの匂いを嗅ぐと落ち着く(笑)。ちなみに背景のミッフィー柄のタオルケットは子どもが使っていた年代物。ミッフィーちゃんがずっと好きなのも成長が止まっているからかもしれない(笑)。さ、いい香りに包まれて今日こそしっかり眠ろう。悪夢は観ませんように。

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