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分からないまま生きる

※センシティブな内容ですので閲覧は自己責任でお願いします。


「生きる」というものがよく分からない。
恋人や家族、友達と会ったり話したり交流する時間は楽しいし、好きだ。
でも、1人でいる時、家までの帰り道を歩いている時、作業している時、頭の片隅でずっと「今行っている行為やこれからする選択に意味はあるのか」と考えている。
今の環境を、他者との関係性を、己の存在までをも否定するもう1人の自分が常に内在している。
どうして生きているのか分からない。
考えても答えが出ないからとても苦しくなる。

「死ぬ」というものもよく分からない。
遠方に住む祖父の訃報を聞いた時にはなんとも形容し難い感情に包まれた。悲しい、とは思っていなかった。それは晩年認知症を患っていた祖父が私にさえ他人へ向ける目をしていたからだろうか、それともかれこれ4年ほど顔を合わせていなかったからだろうか。
しかし、祖父がまだ足腰が立つ頃に祖父の愛犬と散歩していた姿や、祖父が育てていた鯉と同じくらい大きい金魚、私が高校生になったあたりから会う度に「じゃま、おがったなあ(身長伸びたね)」と目を丸くさせていた姿を思い浮かべると心臓がきゅうっと縮まる感覚がする。

一方で、6歳の時から生活を共にしていた愛犬の寿命が途絶えた時にはひどく泣いた。死んだ彼はもう私がその場にいるかどうかなんて知り得ないのに、冬の夜の高速道路をタイヤ交換していない車で走って駆けつけようとして、家族に猛反対されて思いとどまった。それくらい動揺していた。

この違いはなんだろう。

スピノザの「理性の有」という概念を知った。善悪はある物事に設定された目的に合致しているときか、あるいは目的にどちらがより接近しているかという比較において生じているのだという。この目的がなくなれば善悪の区別はなくなる。「生きる」も「死ぬ」も、どちらも必然的な流れの帰結であり、価値評価は人間が投影している幻想なのだ。
善と悪、功績と罪禍、賞賛と非難、秩序と混乱、美と醜はすべて偏見ならしい。

心身共に健康状態はいたって良好。でも1日のどこかで必ず生死について考える。今人生の幕を閉じてみようか、と思い浮かんでみるが、きっと私の愛する人達が傷を受けてしまうから実行には移さない。そもそも痛いのは嫌いだ。


今日も答えを求めて本を読む。考える。
分からないことだらけだ。

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