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他空派の宗論 20

第三項[応身]において、[あり方の応身]と[現れ方の応身]のニより、

第一項[あり方の応身]は、前述の自性身に応身の全ての特徴が一時に現れるので、(現れ方に)対する面からおく。

第二項[現れ方の応身]において、[定義][分類]のニより、

第一項[定義]
『現観荘厳経論』と『大乗究竟一乗宝性論』のごとくであれば、「現れ方の応身の心相続の、新しく得た成所作智である増上縁より起こった、三つの性質を具えることによって特化した色身。」が、所化(弟子)である他に現れる応身の定義。
修行道に入っていない所化達を寂静の涅槃へと赴かせ、修行道に入った者達を大乗道によって熟させ、熟した者達へは最高の菩提へと経証を示されるという、最高の応身は三つの性質を具える。

第ニ項[分類]において、その密厳浄土の三身の我性をもつ主が、その浄土に映像として光の身体を化生として映し出したような偉大なる最高応身と、その浄土に居られる大応身が、映像として百千万もの世界にある限りの応身を変化させたかのような、小さな最高応身と、我々の教示者の御身体を描画や立体として出現させるような事業応身と、転輪王帝釈天や、船や、橋などに変化する生応身の四種ある。

応身にも
自性身の部分(あり方の応身)と
現れである部分(現れ方の応身)の二つある。

自性身の部分に
応身の様相は無いけれど、
応身の全ての様相が現れ得る基である面から、
究極のあり方の応身をおく。

あり方の応身から
現れ方の応身が現れる時、

その仏陀が修行を経て新しく得た
成所作智(じょうしょさち) : 働きを成す智慧
によって
それぞれの衆生に最善最適の様相で
仏陀が現れる。

場合によっては
仏陀であるとはわからない。

「報身には
空性を悟った聖者の菩薩しか会えない。
(しかも十地の菩薩のみ?)」
というのが仏教徒の定説としてあるが、

われわれ凡人がお目にかかれるのが
応身である。

それでも、
釈尊のような最高の応身に
直接会うことができるのは、
カルマが非常に浄化された者だけ。

会えれば逆に
カルマが(浄化されて)無い、
ラッキー
ということになる。

「他に現れる応身」とは、
仏陀以外の知覚をもつ者(他者)に
現れる仏の姿である。

「あり方の報身」も「あり方の応身」も
法界、智慧の本質でそれ自体には形なく、

弟子が教えを得たいと望む時、
弟子の知覚に形ある姿として現れる。

[分類]の項では、
変化(分身を生じさせる)の元から
だんだん変化が増えていく。

報身が密厳浄土に
自分の分身を超能力で映し出す
最高の応身(大)と

密厳浄土で映し出された分身の応身が
他の世界に
神変で映し出す無数の分身である
最高の応身(小)と

一般人がお目にかかれる
平面や立体で表現された仏陀のイメージと

目の前に居られる先生として現れた仏陀と

慈悲を修させるために現れた
老犬の姿をした仏陀と

無常を悟らせるために現れた
葉を揺らす木々の姿をした仏陀と

・・・・・

もしかすると、
われわれをとり巻く世界は
全てが仏陀の応身なのかもしれない。

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