見出し画像

他空・自空

ジョナン派について話す時、
どうしても外せない話題として
他空の見解がある。

「瞑想が好き」というジョナン派のお坊さん達は、おそらく外に出て自らの見解を主張するよりも、内側の瞑想修行を大切にするがゆえに、

ジョナン派の見解をよく知らない人に
ジョナン派の本当の見解を理解してもらう機会は、比較的少ないのかもしれない。

実際にある知人は、
ジョナン派が仏教とは別の信仰だと思っていたが、それは誤解である。

ジョナン派は、仏陀の第三法輪を言葉通りに解釈する仏教の一派である。
テキストでは、
「第三法輪に後続する中観派」
と呼ばれる。

「第三法輪に後続する中観派」とは、
他空論者の意味であるが、

これはジョナン派だけに限ったことではなく、
カギュ派ではカルマ・ランジュン・ドルジェ、
ニンマ派ではロンチェン・ラブジャンパ、
サキャ派ではパンチェン・シャキャ・チョクデンなど、
チベット仏教の他の宗派にも見られる。

これらの中で、サキャ派では他空論者と自空論者が論争をしており、
ゲルク派には、他空論者はほとんど無いということだった。
筆者も浅学ではあるが、聞いたことがない。

さて、他空・自空とは何か?

「空」とは、空性を表す。
空性は「空っぽの性」という意味なので、

何が空っぽ(欠如している)なのか?
という「無いもの」「欠如しているもの」を概念的に特定しなければならない。

簡単にいうと、
「無いんだったら、何が無いの?」
ということである。

それを難しくいうと、
「空性の否定対象」。

仏陀は「すべては空性だよ」と説いたので、
「すべては〇〇(空性の否定対象)が無いんだよ」
と説いたことになる。

ここで、「〇〇が何なのか?」が
非常に大きな問題になってくる。

仏道の修行で意識のステージが上がるかどうかは、空性をどれだけ悟ったかで測るからだ。
空性を間違ってしまうと、
どんなに頑張っても望みの結果は得られない。

そんな理由で非常に真剣に空性について分析考察するわけだけれど、

この空性の否定対象が、
空性という性質をもつ主体そのもの(実体)であれば、「自空」という。
自らの実体が欠如する(空である)
という意味である。

この空性の否定対象が、
空性という性質をもつ主体そのものでなければ、「他空」という。
自らの実体ではない他の何かが欠如する
という意味である。

この他空の見解は
存在するもの全てに当てはまるが、

主に「空性」と同義の
「勝義(究極の意味)」
「真如」
「法界」
において説かれる。

仏教哲学では、有(あるもの)を二つに分ける。
究極の意味(勝義)と、
それ以外のもの(世俗)である。

上記の意味で、
究極の意味(勝義)である空性は、
空性ではないもの(世俗)が欠如している。

空性でないものは、
空性から見ると「他」であるので、
他が欠如する「他空」であるとするのだ。

「空性、真如、法界は、
自らの本質が欠如していない。
完全に成立している。

なぜならば、空性は、
空性を直覚する聖者の知覚にとって真実であるから。」

空性に何が欠如しているのか?
といえば、
空性ではない世俗(他)が欠如しているのだ。

ここで比較のために
自空論者の主張を挙げれば、
「空性も、空性そのもの(空性の実体)が欠如する」
という。

他空については、これらの表面的な言葉だけでは伝えきれない意味がある。

他空論者と自空論者の間で使われている言葉の意味や使い方が一致しなかったり、
瞑想の実践修行でどの部分を説明するかが、
違っていたりするのだ。

次回から「第三法輪に後続する中観派」について説明されたテキストを少しずつ紹介していくけれど、

この他空の見解は、
主に瞑想の実践的な修行に非常に関わっていると感じた。
この見解を礎にした上で得られる成就がある。

これも、ジョナン派のカーラチャクラの法統と密接に関わっている。

言葉で書かなければ伝えられないけれど
(それが上手いわけでもないのだが)、
言葉で本当の意味は伝えられない。

深く理解できてはいないが、
「他空」という言葉に
それを実感している。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?