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他空派の宗論 22

第二項[それが所知を知る方法]に[自説]と[他説]のニより、

第一項[自説]
自説において、仏陀の智慧には、世俗の錯誤した現れは全く現れないけれども、知り得る方法は前述で簡単に記したごとくである。

第二項[他説]
全知プトゥン師と、ツォンカパ師弟のように、仏陀の智慧には錯誤していない全ての法(現象)が現れると承認する派と、チベットの賢者ロンソム・チュサンのように、仏陀には智慧が無いと承認する派のニ派がある。

第三項[事業の構成]を説くにあたり、[事業の本質][それは自然成就で途絶えないと示す][それを例をあげて確信する]の三より、

第一項[事業の本質]
「法身が増上縁をなしたことによって起こった善なる功徳。」が、仏陀の事業の定義。具体的例は、転法輪のお働きのごとくである。

第二項[それは自然成就で途絶えないと示す]において、[自然成就と示す]と[途絶えないと示す]のニより、

第一項[自然成就と示す]において、[御身の事業は自然成就であると示す][御口の事業は自然成就であると示す]のニより、

第一項[御身の事業は自然成就であると示す]
『大乗荘厳経論』より、「かくも宝珠は努めることなく、自らの光を示すように、諸仏も作意なく、そのごとくお働きを確かに示す。」と説かれた。

第二項[御口の事業は自然成就であると示す]
本論(大乗荘厳経論)より、「かくも大太鼓を叩いておらずとも、音が常に起こるように、そのごとく仏は(疲れに)耐えることなく、諸々の教えが常に起こる。」と説かれた。

第二項[途絶えないと示す]
本論(大乗荘厳経論)より、「かくも空に世間の、行為は途絶えぬように、そのごとく無漏の界においても、仏の事業は途絶えない。」などである。


ここからまた興味深い話が始まる。

他空派が説く仏陀の智慧の本質は
空性と不別の智慧であるゆえに、

空性と一体となっていて
主客二元の現れが無い。

主客二元の知覚は
錯誤した知覚であるとするので、

錯誤した二元の知覚に映るor現れる
空性以外のものごと、世俗は

そもそも仏陀の智慧には映らない。

何故かといえば、
世俗のものごとが知覚に映る時には
必ず主客二元をもって映るゆえである。

主客二元が錯誤である時、
錯誤を持ち合わせない仏陀の智慧には
世俗が映らないのだ。

でも仏陀の智慧は
全てを直接にご存知である。

「前述で簡単に記したごとくである。」
と書かれてはいるものの
よく意味が飲み込めなかったというのが
訳者(デチェン)の正直な感想である。

他空派にとって他派となる
自空を説く者達は

仏陀は
空性を含む全てのものごとを
直接にご存知であり、

直接にご存知であるということは
知覚に対象が映っている、現れているということなので、

世俗のものごとも、
(二元の現れをもっていたとしても)
仏陀の智慧に現れた上で
直接に認識しておられる
という。

そしてそれは錯誤ではない。

あるいは、
仏陀の智慧が空性と不別であるならば
智慧自体が様相を持たないので

様相を持たない知覚は無いので
仏陀の智慧は無いという。


仏陀の事業とは、
仏陀のお働きのこと。

他空派の法身には
自性身と報身、応身も含まれるので、
それらの法身が
増上縁(ものごとを特定の様相に生じさせる副次的な原因)をすることによって、
いろいろ衆生を利益する善き事(功徳)
をして下さる。

仏陀の事業には特徴があり、
「やろう!」という動機も必要なく
(自然成就)
制限も制約もない。
(途切れない)

多くのビギナー菩薩が心から望むことは、
この自然成就である。

仏陀は修行時に
非常に大きな智慧と福徳を積んで、
その功徳の力を使って
全ての衆生の役に立つことを
祈り続けた。

その祈りが叶って、
苦しみもなく努めることもなく
自然に衆生の役に立つ事を
最高最善の状態でできるようになる。

苦しみは全く無いので
どんなに沢山働いても
疲れたり嫌になったりしないのだ。

これはビギナー菩薩にとって
非常に魅力的である。

『だったら頑張れるかな』
と思えるようになる。

途切れない例で出てくる大太鼓は
天界の大太鼓であるらしい。

天界のどこかにぶら下がっていて
虚空の振動で
常に鳴っているのだと
どこかで読んだ覚えがある。
原典が記せずに申し訳ない。

仏陀の法性はとても微細で
われわれの今の知覚と共にあっても
認識できない。

それでも見るもの聞くもの経験するもの全てに
法性が空気のように満ちていて

気がつけば
それが活性化するのだと思うと

何だか安心する。

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