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他空派の宗論 14

第二項[勝義諦]において、[定義][言葉の説明][異音同義語][分類]の四より、

第一項[定義]
「意識と智慧のニより、智慧のみの対象であり、あり方において自らの本質が実在している法(現象)」が、勝義諦の定義である。具体的な例は、円成実性の法性のみである。

第二項[言葉の説明]
その法性は、(主客)二元の無い智慧という意味であるので、究極の義(意味)とあり方である故に「勝」であり、聖者の等引が享受する対象として諦(真実)である故に「諦」という。

第三項[異音同義語]
勝義諦、空性、正しい果て、無相、法界なとが同義である。

第四項[分類]
法界(と不二の)智慧自体は本質に分類は無いけれど、呼び方によって分ければ、[不同の勝義]と[不同ではない勝義]のニより、

第一項[不同の勝義]は、実在を否定した絶対的否定の空性、無常、苦などである。

第二項[不同ではない勝義]は、全ての現象にいきわたる不二の智慧である、仏陀の勝義の全ての功徳によって原初より荘厳された、(主客二元などの)発生から離れた、全ての様相を具えた不変の大円成実性そのものである。
他の分類法においても、円成実性の法性のような「勝義の意味」と、究極の涅槃のような「勝義の得るもの」と、大乗の道のような「勝義の成就」という三つがある。

勝義とは、
空性を直接に悟っている
主客二元のない智慧のみの対象であると
本論では説く。

これは、言い方を変えれば
思考で推しはかる空性は
空性ではないということ。

本論で「意識」に対して「智慧」と出てくる時には、
「意識」は主客二元のある意識。
「智慧」は空性と不別で
主客二元のない知覚をさす。

そして自空論者と最も違う言葉で説かれるのは、
「勝義(空性)が実在する」という部分である。

ところが、
他空論者がここで使う
「実在(真実としてある)」の意味は
自空論者が使う「実在」の意味ではない。

自空論者のいう「実在」の意味は
何ものにも依拠することなく
それ自体の実質として
独立して存在していること。
これは、空性の否定対象の意味で使われている。

他空論者のいう「実在」の意味は
空性を直覚している聖者の智慧にとって
空性は真実としてある(実在する)故に、
「実在」という。
こちらは、それを了解している知覚にとって
真である意味で使われている。

同じ言葉でも解釈の意味が違う。

それによって主張が違う。

「円成実性(えんじょうじっしょう)」は
他空派の宗論②参照。

[言葉の意味]での「等引(とういん)」とは、
空性を直覚している瞑想状態。

空性を直覚している知覚は、
純水とその清浄さが分けられぬように
空性のみに心が入り
不別の状態になる。

[分類]にも
「不同」と「不同ではない」の二つあるが、

同じではない=勝義そのものではない
「不同の勝義」に、
「実在を否定した絶対的否定」が入れられている。
これが自空論者の説く空性である。

ここが面白い。

絶対的否定の空性とともに
後述される四聖諦(ししょうたい)の一つ
苦諦(苦しみの真実)の様相に入る
無常と苦があげられていることも、

ニヤッとさせられる。

もちろん
「不同ではない」=同じ
勝義に等しい勝義には、

法性と法性と不別の智慧が
分けられることなくあげられている。

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