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欲張りな観客のレビュースタァライト劇場版感想

 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』観ましたか????
大傑作でしたね......。

 ここ数年のアニメ映画で指折りの傑作だと思うし、デカい劇場のデカいで音響で観たい映画なので、まだ観てない人はぜひ観てください。
 まだけっこうかかってる劇場あるみたいだし。



***
 ここからネタバレあり感想と考察メモ。


 自分は『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』を2回観た。
 1回目は情報量の多さに圧倒されたけれど、2回目は少し落ち着いて観ることができたので、物語の構造もかなりわかってきた。

 自分用のメモも兼ねて、感想を書いておこうと思う。


卒業と再出発の物語


 『劇場版 少女☆歌劇 レヴュースタァライト』はまさに卒業と出発の物語だっただろう。

 TVシリーズのオーディションからワイルドスクリーンバロックへと舞台を移し、そしてそれぞれのレビューを演じる。
 舞台少女たちがそれぞれのレビューでわだかまりやしがらみを振りはらい、最後のシーンでは上掛けを捨ててそれぞれの道を歩きはじめる。
 めちゃくちゃ爽やかなラストシーンだった。

 この劇場版スタァライトの爽やかさは、テレビシリーズ、それから総集編の『少女☆歌劇レヴュースタァライト ロンド・ロンド・ロンド』(ロロロ)から緻密に準備された構成があったからだ。
 そして、この構成を動かす原動力として、トリックスターである大場ななの存在が大きい。

 でも、大場ななの話に入る前に、まずは「舞台少女の死」について確認しよう。

舞台少女の死と、棺桶としての塔

死んでる......


 ロロロで導入される概念「舞台少女の死」
 この概念は少女を「舞台少女」へと作り変える「アタシ再生産」に対置される。

 監督のインタビューで「死」は次のように説明されている。

「アタシ再生産」というワードにもある通り、本作の大きなテーマのひとつに「死と再生」がありますから、これはTVアニメの最初から最後まで一貫していると思います。役者は舞台に立つたびに「死と再生」を繰り返す存在として描いています。
https://febri.jp/topics/starlight_director_interwiew_3/

 次に演じるべき舞台が無いこと、これが舞台少女の死だ。
 
 舞台少女は次の舞台へ進むごとに自分を作り変える、生き返る。
 これが「アタシ再生産」。
 次の舞台へ進むことができなければ、自分を作り変えることができなければ、舞台少女は死んだままになってしまう。

「列車は必ず次の駅へ――では舞台は? あなたたちは?」

 もちろん、舞台少女は次の舞台へ進まなければならないのだ。

 聖翔音楽学園九九組の少女たちは、1年生から3年生にかけて聖翔祭で「スタァライト」を演じ続ける。
 3年間演じ続けられる「スタァライト」は、そのまま学園生活の象徴になる。
 しかし、学園生活=聖翔祭に固執しているかぎり、次の舞台には進めない。

 ところで、劇場版では星摘みの塔は、学園生活のシンボルにもなっている。
 TVシリーズから、塔(星摘みの塔・東京タワー)は様々なもののメタファーとして使われてきた。
 頂点を目指すオーディションのメタファーであったし、タロットカードの「塔」と同じく試練のシンボルであったし、最後にはひかりと華恋が二人で「スタァライト」するための橋渡し(約束タワーブリッジ)の象徴になった。

 では劇場版では何か。
 劇場版では、冒頭のシーンで塔が引き倒され、線路へと姿を変えている。

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 トレーラーより。冒頭のシーンで、塔が破壊された後の影が線路になっている。

 この線路は、言うまでもなく舞台少女たちが卒業した後の進路だ。

 では、引き倒される前の塔は?
 それは卒業する前の状態、学園生活の象徴だろう。
 つまりここに、聖翔祭の「スタァライト」≒学園生活≒オーディション≒塔(星摘みの塔=東京タワー)という連想が成り立つ。

 うろ覚えだが、劇場版スタァライトの、第101回聖翔祭決起集会のシーンに「塔の中で朽ちて死んでいくわけにはいかない」というセリフがあったはずだ。
 このセリフは、スタァライトの塔から出られなければ、つまり、心地よい学園生活から出られなければ、舞台少女はゆっくりと死んでいってしまうということを暗示している。
 塔から出られなければ、その塔はそのまま舞台少女の棺桶になる

画像2

 棺桶の形になった塔。「皆殺しのレビュー」が行われた列車の上も、この画像と同じ棺桶の塔が描かれていたはず。画像はこちらからお借りしました。  

 舞台少女たちは舞台に立ってこその舞台少女なのである。
 だが塔は、学園生活は本当の観客を備えた舞台ではない。
 オーディションのみが行われる学園生活に安住していては、朽ちて死んでいくことになる。

 TVシリーズから一貫して、この星摘みの塔から脱出できるかどうかが、レビュースタァライトの一つのテーマになっている。
 劇場版では、この舞台少女を朽ちさせる棺桶たる塔から出られるかどうか、学園生活を振り払えるかどうかが見どころの一つになるはずだ。

 TVシリーズで、もっとも学園生活に固執していたのは大場ななだった
学園生活を愛していたがために、大場ななは学園生活をループさせ、終わらない99回聖翔祭を楽しみ、永遠のモラトリアムを享受していたのだ。
 そして、永遠の学生生活で「みんなを守り続ける=(舞台少女として同じ舞台を永遠に演じることができる生を与える)」ことを選び、異物である神楽ひかりを排除しようとした。

 「一度きりの舞台」を否定し、永遠を求めた大場なな。
だが、大場ななは、華恋と決闘することで、舞台少女が進化することを知った。
 華恋自身は自覚していなかったが、華恋を通じて大場ななは、自分たちが「アタシ再生産」を通じて次の舞台へ進むことができるとわかったのである。
 こうして、卒業することのない「永遠」に最も固執していた大場ななは、星翔祭の、高校生としてのモラトリアムの呪縛から最初に解き放たれることができたんだろうと思う。

そして大場ななの気づきが、劇場版の「皆殺しのレビュー」につながる。
では、「皆殺しのレビュー」の、大場ななの役割とは何だったのか。


トリックスター「大場なな」の役割


 トリックスターとは舞台における混沌の擬人化だ。
物語の基本ルールから外れる変則的な存在であり、物語を大きく動かす役割をもつ。
 また、「善と悪」、「賢者と愚者」、「破壊と創造」といった二面性を持つのも、トリックスターの大きな特徴である。

 大場ななは、まさにトリックスターと呼ぶにふさわしいキャラクターだ。

 一人だけループする世界に生きる変則性。
 優しさと残酷性の二面性。
 みんなに笑顔でバナナマフィンを配ったかと思えば、列車で九九組を「皆殺し」にする。星見純那に介錯を迫りながら、「君死に給うこと勿れ」と嘯く。
 TVシリーズでも劇場版でも、このトリックスター「大場なな」によって、物語は大きく動いていくことになる。

 このトリックスター大場ななの役割とは何だったのか。

 それは、他の九九組に、みんながすでに舞台の上にいることを気づかせること
 それによって、ワイルドスクリーンバロックを始めることだっただろう。

 前述の通り、学園生活のモラトリアムから最初に開放されたのは大場ななだった。
 一方、他の九九組は、大場ななを解放させた華恋も含め、卒業を前にしても学園生活に捉われているし、学園の中の人間関係にしがらみを抱えている。

 だが、九九組含む99期生たちは、もうすぐ卒業し、欲深い観客たちが眼差しを向ける舞台の上に立たなければならない。
 しかし、作り物のオーディションと聖翔祭しか経験していない九九組の舞台少女たちは、そのことがわかっていない。
 だから、最初に気づいた大場ななが、「私たちはもう舞台の上」ということを、強烈に自覚させるのである。
 「皆殺しのレビュー」によって。

 すなわち、学園生活での「作り物の舞台」における舞台少女を殺すことで、朽ちていくための生を断ち切ったのだ。
 「皆殺しのレビュー」での大場ななは、何度も自分たちが「舞台の上」にいることを自覚させようとする。
 その象徴的なセリフが「なんだか、強いお酒を飲んだみたい」だった。

 この非常に芝居かかったセリフだが、星見純那はそれでも舞台の上にいるということに気がつかず、「私たちまだ未成年だよ」というマジレスをしてしまう。
 それを聞いた大場ななは、6人を殺し、本格的にワイルドスクリーンバロックを始める。

 この殺人のシーンは、物語が「オーディションの理」から「舞台の理」へと移ったことを示す印象的なシーンだろう。
 それまでのTVシリーズの決闘では、上掛けを落とされた方が負けだった。
 もちろん、舞台少女たちが傷ついて血を流すことはない。
 それが「オーディションの理」だからだ。

 だが、学園の外の現実では血が流れ、ときには命を落とすこともある。
 それが「舞台の理」=「野生(ワイルド)の理」だ。
 決まったルールのない「大海原」だ。

 大場ななは舞台少女たちを殺すことで学園への執着をすべてたたき切り、スタァライトから決別させる。
 今までのモラトリアムに引導を渡す。
 そして「舞台の理」に支配されたワイルドスクリーンバロックが始まるのだ。

ワイルドスクリーンバロック


 ワイルドスクリーンバロックとは、決まったルールの存在しない舞台だ。
 ワイルドスクリーンバロックが始まってから、劇中では何度も丁寧に「私たちはもう舞台の上」というセリフでそのことを示してくれている。

 そして、決まったルールが存在しない野生の理であることは、学園生活で奪い合っていた上掛けが勝敗に大きな影響を与えないことで示される。
 たとえば、クロディーヌの上掛けを落としても天堂真矢のポジションゼロがロックされたように。
(高校時代にテストの点数が良かった人がシャカイに出てから成功するわけではない、みたいな感じでオモロい。)

 大場ななの「皆殺しのレビュー」によってワイルドスクリーンバロックが始まり、自分たちがすでに舞台の上にいることを自覚した九九組だったが、 しかし、それだけで卒業後の進路を覚悟を持って進めるわけではない。
 卒業して「私だけの舞台」へ進むには、学園生活での人間関係のしがらみを解き放つ必要がある。
 そのために用意されたのが、ワイルドスクリーンバロックにおけるそれぞれのレビューだろう。

 「怨みのレビュー」では双葉と香子がお互いへの依存を断ち切る。

 「競演のレビュー」ではまひるが大嫌いな人間とも共演できるようになる。
 (「競演のレビュー」は「皆殺しのレビュー」で殺されなかったひかりに「私たちはもう舞台の上」であることを気づかせる役割もある。)

 「狩りのレビュー」では「人間関係のしがらみ」とはちょっと違うが、ななが純那の弱さや迷いを断ち切り、自分の言葉で前に進めるようにする。

 「魂のレビュー」では一方的なライバル関係から、本音で向きあう双方にとってのライバル関係になる。

 上に書いただけがそれぞれのレビューの役割ではないだろうが、とにかくワ イルドスクリーンバロックのレビューを通して人間関係のわだかまりを斬り捨てて、新しい関係を構築していくのだ。

 そして、物語は最後に、このレビュースタァライトシリーズで最も重要な関係性、華恋とひかりの関係性の解消へと向かう。
 「華恋とひかりのレヴュー」を通して、華恋はやっと観客の存在に気がつき、ここが「舞台の上」だと気がつく。
 今までひかりちゃんのことしか見えていなかった華恋が、はじめて自分が立っている場所に気がつくのだ。
 ひかりちゃんと一緒に「スタァライト」することしか眼中になかった愛城華恋は再生産され、一人でも舞台に立つことを決意する。
それが華恋の最後のセリフ「私もひかりに負けたくない」に表れているだろう。

 学園生活・スタァライトのシンボルであり、かつひかりちゃんとの約束のシンボルであった東京タワーは真っ二つに折れ、華恋とひかりはそれぞれの道を歩めるようになる。
そして、それぞれの髪留めを置き去りにし、上掛けを捨てる最高のラストシーンとなる。


幾原邦彦が偉大すぎる


 レビュースタァライトの監督古川知宏は、長らく幾原邦彦と仕事をしてきたようだ。
 『輪るピングドラム』では脚本や原画を担当し、『ユリ熊嵐』では監督幾原邦彦のもと、副監督をつとめた。

 そんな古川の初監督作品、『少女✩歌劇 レヴュースタァライト』には多くの幾原邦彦からの影響が見うけられる。

 とくに『少女革命ウテナ』はレビュースタァライトを語る上で重要な作品の一つだと思う。

 レビュースタァライトからウテナの影響を拾うと枚挙にいとまがない。
 例えば、放課後の学園で学生たちが決闘をおこない、胸のエンブレムをかけて剣を振るうという設定は、そのまま『少女革命ウテナ』から来ている。
 ウテナでもスタァライトでも、何も知らない主人公が決闘に乱入し、そこから「奪い合い」の世界に巻き込まれていくことになるのだ。

 あるいは映像からもところどころに影響を見て取れる。
 逆さになった東京タワーはウテナの「永遠があるという城」を思い起こさせるし、劇場版スタァライトで真矢とクロディーヌが戦っていた薔薇のこぼれ落ちる舞台は劇場版ウテナ「アドゥレセンス黙示録」の決闘シーンによく似ている。
 「アタシ再生産」のシーンは劇場版ウテナの「ウテナカー」のシーンや、あるいは『輪るピングドラム』の「生存戦略」のシーンを思い起こさせる。

 そして、そもそも「学園生活のなかで朽ちてしまうことなく外の世界に出られるか」という劇場版スタァライトの大きなテーマの一つは、そのまま『少女革命ウテナ』の大テーマの一つでもある。

『少女革命ウテナ』の生徒会のシーンは、いつもヘッセの『ダミアン』からパロディした次のセリフから始まる。

「卵の殻を破らねば、雛鳥は生まれずに死んでいく。
我らが雛で、卵は世界だ。​
世界の殻を破らねば、我らは生まれずに死んでいく。
世界の殻を破壊せよ。世界を革命するために」

 このセリフの卵=世界の殻が象徴するのは、ウテナたちが決闘を行う鳳学園だ。
 つまり、ゆっくりと朽ちて死んでいく「学園」から出られるかどうかを主眼に置いている点で、レビュースタァライトとウテナは重なっている。

 1クール(+ 劇場版)のアニメと、3クールの、長さが全然違うアニメを比較することはナンセンスだとわかっていても、ここまで似通っているとどうしても比べてしまう。
 そして、全員が爽やかに学園と決別できるレビュースタァライトよりも、実際に「卵の殻を破れないまま朽ちていく」人々を描いているウテナの方が自分の好みだと感じてしまうのだ。
 学園の外の残酷性を描くのであれば、その残酷性に殺された人や、人間関係のしがらみを解消できないまま「学園」の中に残りつづけてることになってしまった人も描いてほしいと思ってしまうのだ。

 『少女✩歌劇 レヴュースタァライト』は疑いようもなく大傑作だし、新しい挑戦も数多く行った映画だと思う。
 だがしかし、大局的に見ると、作品が幾原邦彦の大きな掌の上から逃れられていないような気がしてしまう。

 初監督作品で、今まで師事してきた監督の影響を大きく受けるのは、ある意味当たり前のことだろう。
 だが、初監督作品でこれだけの傑作を作れる監督なら、いつかは巨匠幾原を完全に超えられる作品をつくれるのではないかと思えてくる。

 満ち足りることを知らない欲張りな一人の観客として、古川知宏自身の次の舞台に、大きな期待をしてしまうのだ。

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