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三途の川をベリーロール 気球に乗った中年

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 私のじいさんは、喘息なのにむせながらひっきりなしにタバコを吸って、ばあさんに怒られていたし、具合悪くてぼーっとしてるのに、45度のカルキきんきんの一番風呂にこだわり、本家のおじさん(息子)に、「年寄りにあんな堅いお湯は、よくねーんだよ」といつもへんな文句を言われていた。

 怒られても止めない。年寄りのやることはよくわからん、と言ってしまえばそれまでだが、どうも年寄りというのは意味もなくガッツがある、というのが、私の幼少時の感想だった。


 たぶん、男はいくつになっても、心の中ではいつも冒険しているのだと思う。そして、たまに、それが心の中ではなく、本当に冒険してしまう年寄りがいるから、感心してしまう、というか、困ったものなのである。


 若者の冒険は「勢い」であり「漂流」である。しかし、年寄りのそれは、もっと「ひたすら感」に溢れ、まるで三途の川をベリーロールするような無邪気さに満ち溢れている。

 この無邪気な年寄り冒険人の筆頭に挙げられるのが、かの有名な伊能忠敬である。


 1745年に生まれた忠敬は、18歳の時に下総・佐倉村の伊能家に婿養子となった。伊能家は酒や醤油の醸造業を営んでいたが、当時は経営がうまくいっていなかった。忠敬はこの家の当主となると、本業以外の貸金業や米穀取引などに手を広げ、瞬く間に家業を再興させた。地域の実力者となり、村役などもこなし、その功績により幕府から苗字帯刀を許されたほど、立派な社会的地位を築き、50歳で引退した。


 人生、ふつうはここまでである。だが、隠居したはずの忠敬が次に選んだ道は、江戸に留学し、天文観測・測量を学ぶことだった。調子に乗った忠敬は、私財を投じた測量隊を組織し、史上初の精巧な日本地図を作成するため、蝦夷から九州まで全国を踏破する17年にもおよぶ旅に身を投じる。

 このプロジェクトは、やがて幕府の支援を受けた一大国家事業へと変貌し、「伊能大図」と呼ばれる精密な日本地図を後世に残すこととなった。これは、引退した元ビジネスマンの「趣味悠々」としては、かなりの突破感である。


 ここでもうひとりの愛すべき無邪気者の話をしなければならない。伊能忠敬の50代にはおよばないものの、肉体の衰えを隠せない40代で、気球による北極点到達という冒険に踏み出た男が、遠くスウェーデンにいた。


無邪気は身体に悪い!?


 サロモン・アウグスト・アンドレーは、1854年、スウェーデン南部の小さな町グレンナに生まれた。1880年代にはスウェーデン特許局の役人として勤務していたが、小説家や科学ジャーナリストとしての顔もあり、熊のように身体が大きく、生涯独身、1890年代にはストックホルム市議会リベラル派の議員でもあった。


 彼は、北東航路を発見したスウェーデン人探検家・エリック・ノルデンシュルトの手引きで、1895年のストックホルムで開催された地理学会で講演を行い、この「気球による北極点到達」という計画を公表した。反対や批判するものも少なくなかったが、他国に先を越されまいとするスウェ-デン人の愛国心に後押しされ、有名なダイナマイト発明者アルフレッド・ノーベルやスウェーデン国王オスカル2世の資金援助で、パリの気球製造者に高さ30メートル以上の巨大な気球「オルネン(鷲の意)号」を製作発注。1896年には、乗組員2人とともに北極海のスヴァールバル諸島に渡り、北極点に向かう絶好の風を待ったが、思うような風に恵まれず、泣く泣く一回目の挑戦は断念してしまう。


 この失敗でアンドレーの評判はガタ落ち、乗組員の一人も脱退。引くに引けなくなったアンドレーは、新たな仲間を加え、次の年に北極点への飛行を強行する。しかし、無謀であった。伝書鳩で(!)送られた最後のメッセージの後、彼らの消息はぷっつりと途絶えてしまったのである……。(つづきは書籍で)

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