見出し画像

どんな状態になっても生き続けたいかと問われると

 先日このような愚痴を述べました。

 ほとんどの人は簡単には死なないという現実や、目の前にいる人の生きてきた過程を考えずに「あんなになってまで生きたくない」「ああなる前に死にたい」と言うような人に出くわすと、何とも言えない憤りや、悔しさや、虚しさに苛まれて、気が滅入ってしまいます。

 でも、私自身どんな状態になっても生き続けたいかと問われると、正直答えは「わかりません」です。どんな状態になっても生き続けるということを想像すると、それはそれで、とても不安な気持ちになります。

 不安の原因は、いろいろなことがわからなくなって生きる不安や、体が動かない状態で生きる不安もありますけど、それよりも、認知機能や身体機能の低下により自分で意思決定できなくなること、意思の伝達ができなくなることが私にとって大きな不安です。

 まず、体は元気だけど認知機能が低下した状態について。何かしらの理由で認知機能が低下し、ついさっき言われたことを忘れてしまう、今私がいる場所がどこなのかわからない、今私のまわりにいる人が誰なのかわからない、そのような状態で生きている人が世の中には少なからずいます。それはそれで不便ですか、そのような人たちは、わからないなりに考え、辻褄を合わせて生きています。怪我をしたら痛いです。嫌なことがあれば悲しんだり怒ったりします。嬉しいことがあれば喜びます。いろいろなことがわからなくなるけど、感情があります。うまく伝えられないことが多いですが、意思もあります。しかし、例えば何かしらの認知症になっていろいろなことがわからなくなると、往々にしてその人の感情や意思は無視されてしまいます。昨日言っていたことと今日言っていることが違う。1時間前に言っていたことと今言っていることが違う。そのような状態が続いてしまうと、本人と話して何かを決めるということが難しくなります。じっくり時間をかけて話せば、その人の芯となっている考え方、その人の本当の意思がわかるかもしれません。しかし、1人のために費やすことができる時間には限りがあります。結局、その人の人生に関することは、家族や介護スタッフや医療スタッフの話し合いで決められてしまいます。自分の人生なのに、自分の意思はほとんど相手にされなくなってしまうのです。

 次に、体がほとんど動かない所謂「寝たきり」の状態について。自分で動くことはできず、話しかけても返事はなく、一日中目を閉じている、そのような状態で生きている人が世の中には少なからずいます。このような状態になると、もはや感情や意思は失われているようにも感じられます。しかし、介護施設で暮らす多くの寝たきりの人は、脳死状態ではないし、大脳が死んでいるわけではないから、遷延性意識障害(植物状態)でもないはずです。つまり、寝たきりだけど意識はある。感情や意思の伝達はできないけど、それらが「閉じ込められている」状態で、失われているわけではないのかもしれない。そうは言っても、一切まわりに伝えられない感情や意思は存在しないも同然。結局、その人の人生に関することは、まわりの人の話し合いで決まります。

 歳をとり、体が衰え、人生の終点が近づいてきたときに、上記のような状態になっていると、まだ治療を続けるか・もうお終いにするかという意思を自分で決めることが難しくなります。馴染みの店のように「おまかせで」というわけには行きません。誰かが決めるしかないので、まわりの人が決めます。それってすごく怖いことだと思うのです。

 自分でもだんだん何が言いたいのかわからなくなって来ました……

 最初に言ったことの繰り返しになりますが、どんな状態になっても生きるということを想像したときに私が感じる不安というのは、いろいろなことがわからなくなることとか、体が動かなくなること以上に、上記のように、自分の感情や意思が無視されてしまうこと、あるいはそれらが自分の中に閉じ込められてしまうこと、それによって自分の意思とは関係なく自分の人生が進んでいくこと、いまいちうまく言えませんが、そういうことです。

 では、不安を拭い去るためにはどうしたら良いのか、少なくとも、今すぐできる簡単で明確な解決策は無さそうです。自分で意思決定できなくなったら、結局まわりの人に決めてもらうしかありません。いざと言う時、まわりの人に少しでも良い選択をしてもらうためには、元気なときから、認知症になったときのこと、体が動かなくなったときのこと、人生の終末期のことについて自分なりによく考えてまわりの人と話しておく、地味だけど、後悔しないためにはそういうことを続けて行くしかないと思っています。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?