腕立て伏せ人間

 だから言ったんだよ。まったく。その直後に私は有楽町のビックカメラで石みたいな格安スマホを買った。性能まで格安何て聞いてないぞ。で、その帰りに私は腕立て伏せ人間に会った。

 有楽町駅の交通会館の前で、一心不乱に腕立て伏せしてた。歳は三十歳くらい。紺のスウェット。髪は短髪で、もみ上げは剃り残ってる。ゴツゴツしたウェストポーチを装着してた。横にはラーメン屋に置いてありそうな木彫りの看板があって、『一生懸命腕立て伏せ中!』と書いてある。手作りか?

 辺りのサラリーマンやOLはもちろん気付いているようだった。みんな腕立て伏せ人間に気付くとぎょっとして立ち止まる。そのまま何食わぬ顔で立ち去る、何となく写真だけ撮って去る、本当にどうでもよいと思っている、人たち。みんな石だった。

 私はというと、昨日市役所で名前をカーヴァーに変えたばかりだった。姓は林。名はカーヴァー。自称、字は玄徳。私は二日連続ですごいこともあるな、と考えていた。これはまるで石だ。で、周りと同じように気付かないふりして立ち去った。実はポケットの中にはフリスクの紙屑が入ってて、あと狩猟免許をとりたくてうずうずしてた。

 次の日。朝に残りの餃子を食べたから口臭が気になってた。通勤電車で私の隣に座る人が席を立つ度に、もしかして口臭がひどいんじゃないかと気になって仕方なかった。みずほ台、和光市、小竹向原の各駅で両隣の人間が座っては立ち去っていった。

 有楽町に着いて出勤する。

 国際フォーラムを突き抜けて行くと、腕立て伏せ人間がいた。場所を変えたみたい。昨日と同じように腕立て伏せしてた。三頭筋がアンデス山脈みたいに発達してる。きっと大胸筋もすごいんだろう。

 私は昨日買ったばかりの石スマホを取り出しPINコードを叩く。1456。いしころって覚えてください。Outlook開いて上司にメール連絡する。

『出勤中にぎっくり腰になったのでお休み致します。現在駅構内で休んでいるところです』

 ぽちぽち。

 ほんとはこんなに淡々と打ってない。嘘をついているのだから心臓はばくばくだ。会社を休むときはいつも心休まらない。

 私は靴を脱いで腕立て伏せ人間の横に並び、一緒に腕立て伏せをする。何年ぶりだろう。いや、半年前にやったか。気付かなかったな。今になるまで半年前に腕立て伏せしたことに気付かなかった。なんでだっけ。理由は。なんだっけな。

 十回もしないうちに上腕筋は悲鳴を上げた。ざらざらしたコンクリートに突っ伏す。

 隣を見ると腕立て伏せ人間のペースはすさまじく、そういう自然現象なんじゃないかと思えるほどだ。私はお昼ご飯について考える。国際フォーラムには屋台が出るはず。そこで食べよう。腕立て伏せ人間もきっとそうしているはず。

 十二時になる。私の腕はピクリともせず、十分に一回だけ腕立て伏せするにとどまってた。

 腕立て伏せ人間はおもむろに、ウェストポーチからうぃーだーなんとかいんゼリーを取り出して飲み出した。その間片腕で継続。さすがプロ。勢いは衰えず、そのままなんとかいんゼリーを三パック飲み干し腕を入れ換えて地面をプッシュ。バランスをとっているのだろう。

 腕立て伏せ人間は、汗を拭くために横を向き、初めて私を見た。ものすごくぎょっとしてて、鬼を見たかのような顔をしてた。私は気付いてもらえたのが嬉しくて、ぐっと親指を立てた。気まずそうにうつ向き再び腕立て伏せに勤しむ。

 15時が私の限界。

 この時間に帰れると本当は嬉しい。プレミアムなんとかデーだ。でも身体はばっきばっき。生まれたてのオットセイだってもっと動ける。私はスーツを全て脱ぎ捨てて、下着姿になる。そして修験道の如く励む、腕立て伏せ人間に声をかける。

「お先失礼します」

 何も言わない。

 私は自分が下着姿でいることに特に恥ずかしさはなかった。いろんな人が私を見ている。問題ない。帰りにフリスク買わなければ。あれ、この前買ったっけ。あと、いんゼリーを買わなければ。

「はーい、ちょっと止まってねー」

 警官が私を止めた。とても優しい目をしている。

「大丈夫?」

 大丈夫とは。上司だってもう少し分かりやすい質問をする。

「大丈夫です」

「うーん、そうは見えないなー」

 結局、服を着させられて家に返された。

 帰りは池袋、和光市、上福岡。

 私は着せられた服を脱ぐ。Twitterで腕立て伏せ人間を検索した。バズっていてトレンドは二位だった。一位は北朝鮮にディズニーランドができたこと。三位は味の素がシリアル会社と契約解除したこと。二位が腕立て伏せ人間。

『有楽町に腕立て伏せ人間いるんやが』

『うでたて、ふせふせ、あいらぶ、スクワット』

『Push Up Maaaaan!!! Loooool!!!』

 私の腕立て伏せ姿が撮されてた。許可とれよ。でも、もしかしたら話しかけられていたのかもしれない。気付かなかった私が悪い。

 Outlookにメールがたくさんきてた。着信も何十件かあった。上司からだ。メールを開く。何も見ない。まあいい。意味もなくChromeを立ち上げ、また閉じる。

 次の日、私は東武東上線の中で腕立て伏せをしてた。すごく他の乗客の邪魔だった。それは認める。でも乗客誰も気付かないようにしてたからマイナス寄りのプラマイゼロ。

 そのまま乗り継いで、何も考えないように葛西臨海公園までいった。安い入園料を払って入園して、ペンギンを見にいった。たくさんの名前のついたペンギン。小さな海で小さく泳いでる。波が蒼い。私は彼らに腕立て伏せした。

「真似するので止めてください!」

 なんだって、と見上げる。ペンギンは腕立て伏せしていなかった。腕立て伏せしていなかったペンギン。お姉さんの嘘だった。巧妙な嘘だ。

 私は係員に強引に立たされ腕立て伏せ止めさせられた。とぼとぼ園内を歩いていると、見知った石がいたので声をかける。

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