洞窟たのしい!

 まず君は目覚める。
 そうしないと、話が進まないからね。
 君が目覚めたのはどこか暗くて冷たい洞窟の奥深く。君が良く知っているものは何一つとして無いんだ。ここから君の繁殖が始まるんだよ ほら、ワクワクするだろう?
 君は困惑し、立ち上がる。体の節々が痛くて、なかなかしんどそうだ。持病の腰痛は君を苦しめる。長時間硬くて冷ややかな地面に横たわっていたんだ、なかなかのダメージだろうな。
 さあどうする。立ち尽くしながら呆然としていても何も始まらない。答えを言ってあげようか。君はね、繁らなきゃいけない。一生懸命に。だって君はずっとそう願っていたんだから。これから君の願いは叶えられる。だから言祝がないと。ほら、そろそろ気づく頃だ。股間がやたらと熱いことに。君の情熱の錫杖が屹立していることに。君は困惑する。状況と勃起ちんちんとのギャップに。
 実は今、君はすごく、高まっている。性欲なんてちゃちなもんじゃない。君を昂らせているのは『繁殖欲』だ。もっと崇高なものさ。少なくとも僕はそう思っている。もちろん君もだ。深い心の底でね。君はとにかく殖えたいんだ。ずっとそう思っていた。ただ気づかないプリをしていただけ。君はせっせもおななも好きだけど、どこかしっくり来なかった。君の射精はいつも空中に消えていた。君は頑張って射精に取り組んだけど、うまくいかなかったね。それを歳のせいだとごまかしていたけれど、そうじゃない。君は繁殖したかったんだ。それに気付けなかっただけなんだよ。君が何もかもうまくいかなかったのは、自分の繁殖性に気付けなかったから。ただ、それだけなんだ。残念ながら君はまだ自分に眠る繁殖欲に気づいていないけど、幸いにして、今は僕が気付いている。だからそのうち君も気づくさ。安心してくれ。
 君は呻きながらよたよたと歩く。姿勢が悪い。股関節が少しずれているんだ。血行も悪い。生き物として弱いね。オフィスリュックがやたらと重く感じられる。うーん、体力が無いね。けっこうやばそうだ。
 すると突然恐ろしげな咆哮が君を襲う。君は馬鹿みたいに慌てふためいてその場に屈む。心臓がバクバクだ。君は知らないけど、これは洞窟に潜む化け物の鳴き声さ。見つからずに、コソコソとやり過ごすしかない。
 ああでも君は、本当にあわれだ。すっかり怯えてしまってみっともなく震えているじゃないか。まあ無理もないか。ここは暗闇でほとんど何も見えないし、不安だよね。そこに恐ろしげな咆哮がきたら、ビビって動けなくなってしまうかも。かわいそうにね。君は前いたところでもそれなりにかわいそうだったのに、ここでもこんな目に遭うなんて。ちなみに君をここに連れてきたのは僕じゃない。僕はそんなこと全くわからないんだ。僕はただ、君が幸せに繁ることを願っているだけなんだよ。
 おお、それでも君は、なんとか頑張るようだ。足を動かして進もうとしている。足掻こうとしている。壁伝いに手を這わせ、前にゆっくりと進んでいく。革靴じゃなくてスニーカーなのが幸いしたね。少なくともしばらくは靴擦れを気にする心配はなさそうだ。しばらく歩いていくと、ぼんやりとした光が見える。息を殺して近づくと、それは苔だった。光る苔だ。前の世界にもそういうのはあったのかな? 僕は、あんまりそういう知識は無いんだけど。ただそのちっぽけな光は不安でいっぱいだった君の心を照らした。それだけで勇気が湧いてくる。もうちょっと頑張ろうって気になってくる。
 光る苔はそこから道沿いに群生しているようで、なんとなく道の形も分かってくる。目も慣れてきて、周囲の様子も分かってきた。君はやっとここが冷たくて暗い洞窟なんだと理解し始める。情報が増えると、君のちっぽけな脳は頑張って考える。情報を処理しようとする。でも、君の脳はやっぱりちっぽけだから大した結論は出せずに、ただ漠然とした不安だけがハズレのガチャポンのように転がり落ちる。何わからない不安。どうしようもない不安。でもまあ、人間なんてこんなもんだよ。君はまだ頑張っている方だ。
 あっ、また咆哮だ。これは別種の化け物だな。さっきのは大地を擦り合わせたような不協和音だったけど、今度のはまさしくつよつよな獣って感じ。巨大な質量が暴力的な筋肉を震わせて圧倒する振動だ。あーあ、君の顔ったら、本当にひどいもんだ。真っ青になっちゃって。本能のままに命を喰らう獣がそう遠くない場所にいるって、察してしまったんだね。
 そう報せだ。君はまったくそこまで考えが及んでいないだろうけど、洞窟でも強者にあたるこの二匹がお互いに主張し合っているんだ。君という獲物は、自分のものだって。君は、あわれにも、気付いてないけどね。
 ぴきん、と君の脳みそが突然冴えわたる。今君の身体と精神はかつてないほどに緊張し、肉体のポテンシャルを極限まで使って生き残ろうとしていた。切り替わったんだ。君の肉体は、動物だった頃の古の遺伝子目録を引っ張りだしてどうにか身体にインストールした。すごいや。視界は少しクリアになり、難聴気味だった聴力派微かな音も逃さない生体ソナーになった。あらゆる五感が君のためにセットされた。君が生き残るためにカチンとハマった。さらにいうと君の勃起ちんちんはかなりいきり立っている。生存本能を刺激されまくっているからね。だけど空気を読んで、暴発することは今のところないようだ。
 抜き足差し足で洞窟を進む。まるで狩人みたいだ。
「……どっちだ?」
 ここにきてやっとポツリとつぶやく君。声がしゃがれて、喉に張り付く。つばを飲み込むと喉の肉がぺりぺり剥がれる感触。道が二手に分かれている。どっちに進もうか悩んでいるんだね。ふーん、少しだけ余裕が出てきみたいだ。呟いたりしちゃってさ。ああ、思ったよりもこの状況に適応しつつある自分を客観視して、ちょっとだけイカしてるって感じたみたいだね。莫迦だなあ。今、君は完全に補足された。この洞窟の中でも、いちばん話の通じない捕食者に。人間の声なんて異物、彼らが見逃すはずないじゃないか。咆哮が聴こえないのは、君を仕留めにかかっているからだ。ちなみに、君がこのまま食われる可能性はかなり高い。七割といったところだろうか。残りの三割を引き当てられたらいいね?
 君は右の道を選択する。残念。外れだ。そっちで化け物が待ち構えている。君はいつもそうだ。大事な場面で二択を外すんだよね。残念だ。
 さあダッシュダッシュ。逃げろ逃げろ。君は走った。腰が悲鳴を上げている。股関節がぎりぎりと痛んで、膝が軋む。ふくらはぎが攣りそうになる。何年も全力で走ってないのにいきなり走ればこうなるさ。でも、君は走るのを止めない。というか止められない。そりゃそうだ。後ろから迫る脅威は、もう耳でも感じられる。巨大な質量が猛スピードで移動する音。洞窟のあちこちにぶつかり、ずしんずしんと衝撃が響いてくる。獣の荒い息遣いが聞こえる。君の顔はもう、まさに必死といった表情だ。文字通り、必ず死ぬ。このままじゃね。九割死ぬだろう。さあ、どうなる?
 君は高校生以来の全力ダッシュで洞窟を駆け抜ける。すると、少しだけ広い場所に出た。大きな岩場がいくつもあり、身を隠せそうだ。少しだけ安堵する君。でもまずいね。そこから十歩先では化け物が地面に潜って君を待ち構えている。君が上を通り抜けた瞬間一息に飲み込むつもりなんだ。こいつはふつーに戦っても強いんだけど、悪知恵が働くんだよ。脳みそがどこにあるのか分からないような形なのにね。他の化け物が追いかける獲物の先でこうやって待ち構えて労せずに獲物を横取するんだ。これがアビサリアの黄金パターンさ。さあ君は気づくのか、あと三歩、二歩、一歩……。おっ、気付いた!
 君は目の前の地面が変色していることに気づいて、反射的に右に跳んだ。素晴らしい。本当に素晴らしい反応速度だ。もう君の身体はとっくに限界であるはずなのに、まるで追い詰められたトムソンガゼルのように華麗に宙を蹴った。
 でも、君の右足は無くなった。残念。それは今、アビサリアの口の中にある。
 ボヨンどたん、ゴロゴロ〜。君は間抜けっぽく転がって岩肌に身体を打ち付ける。頭がクラクラするね? そして襲う激痛。右足からぴゅう〜って血が噴出している。呆然とする君。体温が一気に低くなる。何も考えられない。
 はい、化け物とうちゃく。身の丈三メートル近い巨体で立ち上がり、二本の右腕を君に振るう。一撃で君の意識はなくなり内臓やら骨が飛び散る。そこにもぐもぐ右足を食べていたもう一体が飛びついて、君の左半身を食い破る。痛みで覚醒した君が最後に見たのは、四腕熊の鋭利な乱杭歯だった。頭から胸元まで食いちぎられて、あっけなく死ぬ。血を噴き出す心臓。アビサリアと四腕熊は争って君の身体を貪る。圧倒的質量の捕食者によって、君の死体はブチブチ切り裂かれ、千切られ、バラバラになる。
 骨も血もキレイに片付いたあと、両者は睨み合って、互いに引き下がった。やり合えばどっちもただじゃすまないって分かっているんだよね。
 闘争の跡にはボロボロのリュックが残されている。君の繁殖への道は永遠に閉ざされた。まあ、良く頑張ったほうじゃない? おつかれ……。

 なんてね。うそうそ。冗談だよ。ごめんね、びっくりした?
 さっきのは途中から僕の想像さ。確信に近い想像だけどね。
 君は生きてるよ。
 よかったね。
 今度は二択を外さなかったんだ。君は実は右ではなくて左に跳んだんだ。だからまだ生きてる……君の繁殖はまだ終わらない……。

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