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汚部屋から脱出 物を捨てるは人生の否定

「あんたは掃除の仕方をしらない。ちまちまやってても片付かない。床に落ちてるものを片っ端からゴミ袋に捨てる。捨てたら玄関に出す」
昨日、母に言われて泣き出してしまった。
そして困らせた。
昨日は踏んだり蹴ったりで、無自覚に総会はサボるわ行きたい喫茶店はやってないわで、それでも募金して帰ってきた。そして掃除を再開した。
片付かなくて泣き言を言った。それに対しての返答が前述の通りである。
やっていないわけじゃない。けれど終わらない。
30過ぎて掃除ができないと泣くなんて情けない。
そうなると「掃除の仕方と男を見る目をつけられなかったのが私の教育の失敗」とお決まりの母の小言を思い出す。
しかし、実際、自分のものを捨てるという行為は、私には研修会の司会しろと言われるくらいのプレッシャーになる。人見知りには地獄だ。
それだけでなく「捨てる」という言葉はぱ行並みに語気が強く、聞いてるだけで発狂しそうになる。(たぶん、中学生の時に勉強しなさすぎて、キレた母親が捨ててやる!と叫びながら漫画本ゴミ袋に放り込んで回ったのが原因。すがって泣いた)
部屋は私の歴史であり、その歴史に手を入れるすなわち、自分の否定になる。
これだけ自己否定が強いのに、掃除のほうが自己否定が強いとは我がことながら馬鹿馬鹿しい。ああそうか、壁に頭ぶつける自傷をするくらいなら、人生の証を捨てる自傷のほうがよっぽど健全かもしれないと思った。今。
30もすぎれば誰も慰めてくれないし、泣いたあとに床のもの全てがゴミなんだと思った。床の上に立っている私ですら。
私の宝物は人のゴミ。
それを痛感した。
とりあえず、泣きながら売れなかったCDは梱包し直し、もったいない本舗に依頼した。
昔仕事でやっていたものをバラし、廃品回収とシュレッダーにかけるものにわけた。
出てきたトレーニングカード入れと未開封品のトレーニングカードを出品する。
昔、ガソリン撒いて火をつけたいと思ったことを思い出した。

ぜんぶいらないのだ。私すらも。

死にたいイキモノが、今ある物質的なものにこだわるなんて滑稽だ。
人生の証を捨てることすなわち自殺と同意義ではないか?

思考の飛躍は重々承知。
人間不信と自己嫌悪。自罰的にしか生きられない。
そんなこんなで今日も仕事に行っています。

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