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随筆『優生思想』



優生思想とは


 優生思想とはどのような考えであるか。

 それは、優秀な人を生き残らせて、優秀でない人を排除する思想といえるだろう。
 また優生保護法においては障碍者や病気をもった人に強制的に不妊手術を行ったとされる。つまり、将来に渡っても優秀な人のみを残そうとする考えでもある

 まず、ここで問題なのは、「優秀な人」と「優秀でない人」の区別である。

 優生保護法では、「優秀ではない人」には障碍者や特定の病気をもっているが所属している。一方で「優秀な人」には病気を持っていない健康な人が所属する。

 この区分はどのようにして行われたのだろうか。どのような根拠のもとに行われたのだろうか。

 考えてみると、何かしらの基準をもとにこの区分がされたのではなく、なんとなくの直感によって決められたものなのではないのだろうか。もっと言えば、多くの人がなんとなく納得できる区分にすぎないのではないだろうか。

 なぜ健康な人が「優秀な人」で、障害をもっている人が「優秀ではない人」なのかを真剣に考えてみてほしい。そこにあるのは、偏見ではないだろうか。

 この偏見の根底にあるのは、西洋思想に脈々と受け継がれているプラトンのイデア論であると私は考える。

 何か不変的な理想的なもの(イデア)があり、それが善である。そして健康な人が理想的であり、善である。よって健康の人が善なのだから、その人たちの子孫を残し続けようとするのが、優生思想といえるだろう。

 では優秀とはどのように定義するのだろうか。優秀さとは何を基準にすればいいのだろうか。私たちは、なにか絶対的な一つの優秀さのようなものがあると考えているが、それこそが大きな幻想なのではないのだろうか。

 今、仮に健康な人を優秀と定義しよう。しかし、なぜ健康な人が理想的な人なのだろうか?少し考えてみれば分かることだが、この世のなかで最も人を殺しているのは健康な「優秀な人」である。広島や長崎に原爆を落としたのも「優秀な人」であり、中国人に実体実験をしたのも「優秀な人」である。 世界中の非人道的行為を調べれば、そのほとんどが健康的な「優秀な人」である。こういったことからも、本当に健康な人が「優秀な人」と言えるのだろうか?

 ほかの言葉で優秀さを定義づけようとしても同じことがいえるだろう。つまり、「優秀な人」という大きなグループを定義づけられるような例外のない必要十分条件など存在しないのではないか。

 しかし、優生思想の持主は不変の優秀性があるのかという問いに暗黙的に「ある」と答えていることになる。であるならば、その沈黙をとき、一体「優秀な人」は何なのかを説明しなければならないだろう。

優生思想に対する反論

 優生思想は、普遍的な優秀な人、つまりイデア的な人がいることを前提としている。それに対して、イデアなどないと言ってしまうのが一番簡単な反論の方法である。しかし、それは本当に反論になっているだろうか。

 イデアはない。優秀さは相対的で、みんな優秀であり、優秀でない。この主張は不変的な優秀な人がいるという考えを排除する。その代わりに、相対性というイデアを想定している。

 相対性に反するものは、排除する。それは絶対性に反するものを排除する優生思想と本質的には同じことにならないだろうか。

 つまり、相対主義は相対性を絶対化しなければいけないという問題に帰着する。多様性を認めるには多様性を認めない人も認めないといけない。それは一種の矛盾である。この矛盾に真剣に向き合わなければならない。

 優生思想に反対する人は、多様性のすばらしさを説く。しかし、その人たちの言う多様性もよくよく聞いてみれば、優生思想となんら変わらないのである。

 本当に多様性を重視するのであれば、殺人犯も刑務所に隔離すべきではない。また、国籍もなんの審査をせずに認めるべきである。しかし、ここまで過激な主張をする人はいない。ほとんどの場合、ある種の制約がある。その制約こそ、人が無意識にもっている偏見であり、優生思想の種なのである。

 この意味で、真に多様性を認めるということは、無政府主義であり、国家の否定である。逆にここまでしなければ、人を区分していることになり、それが優生思想となる。区分を捨てて、すべてを受け入れる。そんなことが可能なのであろうか。

 可能な回答

 ここまで述べてきたように、優生思想にせよ、その反対の意見にせよ、その根底には「イデア」が前提とされていた。つまり優生思想は不変的な「優秀な人」がいると考え、反対意見の人は相対性をイデアとする。

 このイデアを除去することは可能なのだろうか。

 イデアの特徴は、不変的であるということである。つまり、過去や未来といった時間を超越しており、変化は許さない。もし、イデアがあるなら、そのイデアは過去と未来で変わってはいけないのだ。
 
 ここに、時間を考慮しないという大きな問題点がある。

 現在使われている多様性という言葉には、前提がある。それは多様性とは空間的でなければならないということだ。つまり、時間を無視している。

 多様性を主張する人は、今まさに多様性がなければならないし、空間的な多様性が未来においても永劫に多様性が必要だと主張する。よって、「今」における空間的な広がりの中に多様性がなければ、それは多様性ではないし、その「今」が未来永劫続く必要性がある。これが多様性を主張する人の多くの考えである。

 しかし、時間的に見てみてほしい。日本は歴史的にみれば、北はロシア、南は東南アジア、そしてもちろん中国大陸や朝鮮半島から多くの人たちが集まってきた場所である。そして、ある時は天皇が強い権力を持ち、ある時は武士が権力を持つ。そしてまた別のときは民衆が力をもつ。時代によって、様々な多様性があるのではないだろうか?

そして、きっと未来においても今とは違う社会が展開されることだろう。

 このように時間的な多様性であるならば、なんら矛盾せずに多様性を認めることができる。そこにはなにも固定されたものはない。すべてが変化していく。時間の中においては、固定された国家などない。

 このように多様性は時間の中に見出せる。しかし、優生思想は生殖を禁止することにより、時間的な多様性すら否定する。なぜなら、優秀さというものは、いつの時代も変わらないと考えているからだ。私が思う優生思想の問題点はここにある。

 一方で、単純に優秀さを求めることは認められるべきでないだろうか。というよりも、無意識に認めている。恋愛でも無意識に自分が優秀だと思う人と子供を産みたいと思うものだし、人は相手に優秀であると思ってほしくて多様性を捨てることもある。

 しかし、みんなにとって同じ不変的な優秀さというものがないため、同じ偏りが続くのではなく、異なる偏りが断続的に生み出される。つまり、動的に見てみれば、優秀さを求めるのも一つの多様性なのである。

 多様性は時間の中に見出すものでなければならないし、優秀性は空間の中に見出すものでなければならない。そうすれば、両者は矛盾なく両立するだろう。

 優生思想に対する反論は、静的なものから動的なものへと変える必要性がある。

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