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川で落ち着いていたいウオなり

この歳になるまで気付かなかったけれど、私はどうやら環境を重視する体質のようだ。

自分は、多少ハードな環境でもなんとなく大丈夫だとハングリー精神があるように思っていたけれど、それは全くの思い込みで、ブラックバスに憧れるサンショウウオだった。
清流でないと絶滅するタイプだった。

生まれ育ちが『貧乏子だくさん』だったので、ワイルドだぜと心で息巻いていたけれど、なぜか、高級なものが好きで、自分でも『ハイソサエティには全く興味が無いのにな?』と不思議だった。

上流社会には興味がないが、皮膚の感覚や視覚の嗜好が、おハイソだったのである。

たとえばよくカフェでブログを書くのだけれど、お店の明かりが気になる。机や椅子の心地が気になる。グラスが気になる。おしぼりやナプキンが気になる。音が気になる。接客が気になる。絵画や観葉植物が気になる。空間全体が気になる。

そう、気になってしまうのだ!!!
ガーン

私はあまり、こういう感じの人が好きではない。


だから、自分にも無いものと抹殺していたけれど、私は確かに、周囲に意識がいってしまう性質があると自覚した。

なので、自分の心地いいものを求めると、高級なものになってしまう。
高価なお店やホテルだと環境的に落ち着くのだ。



人と一緒に居るときには、自分の感覚は『相手が第一』となる。

それは利他的な精神からではなく、『人の感覚が自分に与えるダメージが、何よりも大きすぎる』から、場を『自分に優しい』空間にするためには、相手を尊重することが必須だからだ。

とにもかくにも、自分のための環境が第一なのだ。

自分への影響を最小限にするために、最大の環境要素である人間、目の前の相手のことを重視する必要がある。

人間が一緒の時には、たかたが知れている食器や店員や座り心地など、屁でもないのである。

けれども、一人で居るときには(たいてい一人だ)いま、この時の自分の感覚に添ったよりよい環境選びにこだわる。
高級だけが基準ではない。お金を使っていいのか、使わない方が安心なのか。何をどうしたいのか、それに最適を寄せるとどういう選択になるのか。


時間がかかる時もあり、一見、優柔不断な事この上ない。(自分でももどかしくて嫌になる)

私は私の機嫌をとることが、生きる命題なのだ。
サンショウウオだったのだ。

仕事も社会も疫病も、そんなものは一緒くたで、気分を変えるために入る喫茶店と変わらない、私の『周辺環境』であるに過ぎない。

私は、人の役に立つとか、社会に貢献するとか、病気を蔓延させないとか(他者の意見を受容することは出来たとしても)それらのことは自分の軸にはなりようが無いし、自分の生きる意味や感情にはのってこない。

ただ
落ち着いていたいのだ。
オオサンショウウオのように。

この、私の自分第一の性質で、ごく身近な人は、近しい人ほど幾度も傷ついてきたとおもう。私の根本的な生き方がこうなので、残念なのだけれど変えようもない。
自分は人に愛される資格がないと無自覚に罪を抱えてきた。
この琴線に触れると意味も無くすぐ涙がこぼれるくらい泣き所だったけれど、近頃なんとなく吹っ切ることができたんやないかなとおもう。

カマンベールチーズのサンドイッチと、辛めのジンジャーエールを氷少なめで。ブログ書いたので帰ろ

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