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コントローラーは繋がってない
400万年のあいだ、地球上を移動して生きてきた人間は、1万年ほど前「移動」から「定住」へと生き方がかわる。
脳が発達して
道具を持つ事が出来るようになったために農耕が発明され、不安定な移動生活から脱して、ようやく土地に定住化できるようになった
というわけではなくて
気候変動のために、いたしかたなく定住するようになった。
それまでの恵まれた豊かな移動生活を、捨てざるをえなかった…
という見方のほうが、私はしっくりくる。
生きるのに欠かせない食事だって排泄だって
移動すれば、豊かな自然が与えては循環して助けてくれるのに
定住することによって、食事の確保にも、排泄の処理にも「自ら」行わねばならず
なんと労力のいることか。
土地に「定住」すると、人間は生きるために大変な手間がかかるようになった。
400万年育ててきた人間の大脳
自然とのコンタクトへ向いていただろう脳は
手のかかる「生活」のもとに使わなければならなくなった。
縄文時代は「定住しだした狩猟生活者たち」の跡だ。
ゴミ捨て場を定めたほうが良いということになり(移動していたらゴミの処理も必要ないのだ)貝塚ができた。
定住化により、様々な道具を作り出すことになる。
それまでとは違う方向性に巨大な脳は順応する。
石を加工したり身の回りや土器をゴテゴテと飾り立て出す。
自然に向いていた脳が生活へと向き始めて急速に人間の生活は彩られ始める。
道具とともに社会が誕生する。
定住は、良し悪しの判定「ジャッジ」を生んだ。とどまることは「失くなる」ということ。失う恐れは、風のような生きかたを変えた。
視野の狭窄へ
人間関係のはじまりだ。
農作が興り、食料の保管を行いだすと
食料の取り扱いによって
争いと身分が生まれた。
貴さは、戦いとセットである。
貴さが賎劣をうむ。熾烈な競争がはじまる。
400万年、おおいなる自然へと向いていた私達の脳みそは、加速度的に人間の内面、内側イコール「思考」へと向き出した。
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内向的な自分にとって
旅行は自分と向き合える時間まんさいだ。
旅では、起こる感情を自分に問うてばかりになる。
一人ぼっちで知らない場所に居ると、周りはバーチャル映像のようになる。
慣れ親しむものはどこにもなく、感覚が遠くて
自己が肥大する。
まるで、現実が薄く、思考が濃くなったようだ。
主人公である自分を強く感じて、守りが強くなる。
もともと内向的な私は、人生ほとんどの興味が内側に向かう。外へ注意は向きつつも内観のボリュームが大きい。
一番恐れていて、大切な自分
いつも、自分を納得させたい。
視野狭窄が苦しみを生むため、自分を傷つけない手段として「思考に振り回されないぞ!」と身構えているが
今回の旅ではそれは霧散した。
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11月5日~6日に佐賀へ行った。
関西国際空港へと乗り換えたJRが、途中、線路内確認により遅れた。
何とかなるだろうと高をくくっていたが、飛行機のチェックインに5分遅れてしまい、飛行機に乗れなかった。
飛行機に乗れなかった!
私の脳内は緊急会議勃発だ。
誰も私を傷つけやしないのに
臨戦態勢だ。
失敗して傷つきたくない!
コントローラーを握る私は、この窮地をどう切り抜けるか、現実を見ているようで見ていない。
どうにかうまく成功を掴みたい。コントロールしたい気持ちが膨む。
自分の選択によってコントロール出来ると思いこんでいる私の行動は、実際には行き当たりばったりでしかない。
いちいち外側に反応をしているだけなのたが、その渦中では分からない。
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空港を後にした私は、飛行機以外はたいした予約もない旅を中止して自宅へ帰ることにした。
けれども途中で帰路の電車を降り、新大阪を通る京都行きの特急くろしおへ乗り込んだ。
陸路で佐賀へ行くことにするまでの葛藤がすさまじかった。
JRでなく私鉄を選んでいれば間に合ったのに…
空港についてすぐ、第2滑走路までタクシーで行っていれば間に合ったのに…
どうせ一人旅で予定なんてあってないようなもの。余計な出費は控えていつもの土日を過ごせばいいじゃない。
後悔が、損得勘定がけんけんごうごう
特急くろしおの車掌さんから、特急と新幹線とまた特急を乗り継ぎ一気に佐賀まで行くJR乗車券を購入した。
空路を陸路に変更するまでの数十分間だけではない。
今回の旅はずっとこの調子で、翌日大阪に帰ってくるまでケンケンゴウゴウ!
コントローラーを握った私は、ズンズン進めながらも様々な事にアワアワしっぱなしだった。
小さな選択さえ恐ろしくて怖くなった。
怖いので進むしかなかった。
夜はまったく眠れなかった。
線の繋がっていないコントローラーを握っているんだ。
何度も、思い通りに行かない事が起こる。
焦点を自分の混乱に当てているので
心配や不安を自分の中から生みだしてしまい
迷いが次から次へ湧いてきていた。
葛藤する自分が辛かった。
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朝7時に家を出て15時
目的にしていた佐賀のバルーンフェスタ会場にたどり着いたら、「午後のバルーン飛行は中止と決定しました」のアナウンス。
会場が、え〜残念〜の感嘆詞でざわめいた。
人の波が動き出す。
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「恐れ」は私の専売特許だ。
ここ10年、密に向き合ってきた。
沸き起こる恐れと不安に翻弄されながら、客観性を保つことに必死だ。
おのれを客観視しながら「そして現実を楽しむ」ことに私は執着している。
人生とはそうやって楽しまなければ。それしかない、と思い込んでいるらしい。
そんな価値観を持つ私の楽しみはつまり、その楽しみの反対がなければ感じることができない。
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不安という黒が
見えざる手(自分)によってオセロ盤に現れる。
すぐさま白へ白へとひっくり返したくなる。
すべてこれで良い
と思えたとき、黒は白に変わる。
黒を白に「変えたい」「変えなければ」
と思っている時が苦しい。
では
「変えたい」「変えなければ」
と思わなければいい。
けれど、それでも
「変えたい」
黒を白にしたい!
その意思を自覚することが必要で
じゃあそうすればいいと方向性が見える。そうする。
決断は解決となる。とたんに黒は白になっている。
そして私はやっと安堵するのだ。
それを何度も何度もやるんである。
何度も何度もやれるように
次から次へと黒い石は湧いてくるんである。
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自分でやってるんだから、マゾかと思う。
定住生活をしだした人間、私の脳は、それを求めてしまう。コンタクトを内側へ向けたから。
私たちの脳は巨大だ。なんだって構築しまうんだ。80億人が住まえるほどに。
オセロの黒石は、一万年の集積回路である。
私たちに不安は湧いて出てくる仕組みになっている。不安によって動かされる。
本当は、黒も白もない。
良い思考も悪い思考もない。
良いと悪いがあると思っているうちは
堂々巡りで、不安とともに物事は拡大をつづける。
それが気持ち悪く感じてきたなら
そこを降りるしかない。
降りても結局「問題はない」
降りようが降りまいが、コントロールは効かない。
降りても拡大は止まらないのに
「失うことを恐れる脳」がコントローラーを離さない。
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MONKEY MAJIKの曲が、バルーンフェスタの会場で流れる。空はまるできみのように青く澄んでどこまでも
30歳を過ぎた頃、MONKEY MAJIKをよく聴いていた。大阪から京都へ通信制大学へ通う往復電車の4時間、イヤホンでニ枚のアルバムを繰り返し聴いていた。
離婚へのカウントダウンは始まっていたし
二人の娘は小学生だった。
自分は何者になれるのか模索していたあの頃、自分自身と全く向き合えていなかった。
自分を見ていないので、家族も見ていないし、
何も自覚できず、何をどうすればいいか、何も分からなかった。
空はまるできみのように青く澄んでどこまでも
しばらくMONKEY MAJIKは聴くと辛い気持ちになったので、聞くことも無かったけれど
ぜんぜん思い通りにいかない旅で久しぶりに聴くと、なんとも気持ちよくすがすがしい気持ちになった。
あの、心底
誰にも言えないくらいにバカな
どうしようもない私も、もうぜんぶまるまる「何でもない」ことになっていた。
空は本当に、青く澄んでいる。
![](https://assets.st-note.com/img/1669524416934-VVplINPPUV.jpg?width=1200)
私達は、良い気分だけで生きるモノじゃない。
満足は「足で満たす」
つまり「行動すること」
人生の充実とは
自分の喜びや優しさ、大切に思うそれらを行動へ変えていくこと。
自分の中の愛を見出していくことは、まさに満足といえるだろう。
けれども、それだけじゃない。
それだけじゃない
そっちだけじゃあ、ない
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移動生活していた人々の意識は自然へ向き合うボリュームが大きかったに違いない。
空に
海に
木々に
動物にと、意識は向いていただろう。
自己と自然は随分近く
一体化していたのだろう。
なにもコントロールが効かない自然として、当たり前に己を生きていたのだろう。
私たちだって誰もがちょっとだけ、一瞬だけ、他のものと一体化する。
ふと眺めた景色とか
猫の揺れて光る毛とか
お母さんの背中から覗いている、抱っこされた赤ん坊の足の指なんかと
自己が無音で重なる。
介護の仕事をしている。
仕事がうまく行けばいいなと、毎日思う。
グチャグチャで淡くて混沌とした理由のない不安を折りたたむように整えて
自分を奮い立たせて、大丈夫、と毎日励ます。
日々、私と対する人の中にも、景色のような、フワフワ毛のような、覗く小さな足のような
そんな一瞬の、コントロールできない自然との邂逅を望む。
仕事の対象者も私も、自然の一部だ。
自然の繋がりを感じることができることを望む。
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握ってても握ってなくてもいいコントローラーは置いとこう。肩の荷が降りるから。
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