見出し画像

地獄でおこなう平和活動

以前、自分の生き方は「納得」がモットーだった。

自分が納得して生きれば、幸せだとおもった。

人生の目的をもてば生きやすくなるというので、目的を持って生きる人は多いと思う。
譲れないものや、こうなりたいという理想である。

納得を大事に思っていた私の世界は、納得できないことだらけだったのかも知れない。


私は社会的な問題が好きで目に入る。この性質により、子供の頃からこの世界に辟易していた。
悪意なく自由を謳歌する人間に、恐怖を感じていたし、自らにも罪悪感を感じていた。

小さな頃には肌で感じていただけだったけれど
大きくなると、遠くで起きる過去や現在の問題を山盛り見聞きする。

マンガや映画、本やテレビで伝えられる大きい問題、小さい問題…
理不尽だし、憤りを覚える。心が震えて悲しくなる。
そういう情報に晒されると、ますます無力感を覚えて、虚無におおわれる。

気力をどこかに少しずつ奪われながら、それでも私達は生活して生きることを、自分ができることを必死にする。

自分が暮らしているのと同じ世界で、悲惨で複雑な問題が糸のように絡まっているのを知っている。いつもいつも同時平行しているのを、放置している。
救世主か世紀末を待っている。


仏教的思想だったろうか、この世界は13層からなる地獄の、一番上の層にある地獄なのだというのを聞いて、腑に落ちた。ほんまや。地球上がまさに地獄や。

小さな子供から老人まで、この地球では、焼かれ、踏みにじられ、殺され、姦淫され、生き延びても恐怖に怯えて加害者になる選択をする。

ごく近しい者同士で非難しあい、奪い、蔑み、復讐しあう。あっちでもこっちでも
みな、自分を守るために地獄を体験している。


そんな地獄のこの世界で、自分が何かできること、問題啓発をして世の中に知ってもらったり、できる親切をしたり、ボランティアや寄付をしたり…世の中を、少しでも変えたい、小さくても誠実になにかをしたいと思う。
良いことをしている人には憧れを持ち、エールをおくりたくなった。

そういう時期があった。
納得したかったのだ。
生きることに、生きる意味に、この世界に納得したくてあがく。

けれど何をどうしようとも虚無感は消えない。
「そこを見ている限り」消えないのだ。

私が地球の地獄から抜け出す方法は簡単だった。

こころの目で、地獄を見ないことだった。

見てみぬ振りをしても、抑圧するだけややこしいことになる。
「見ないようにすることも選択できる」までは、自分の闇と向き合う時間が必要だった。
それでも、これまで無力感に晒されてきた時間に比べたらほんの少しだ。

自分は自分が生きる世界を選択できる。
選択をする勇気をもつ。

沢山の問題を自分の世界から切り離すことは、常識と一線をおくことになるので勇気がいる。

例えば
コロナの流行や経済的打撃を問題としなければ、非国民の扱いを受けるかもしれない
親の認知症や配偶者の病、子の挫折を問題としなければ、愛情がないと思われるかもしれない
職場のイジメや顧客のクレームを問題にしなければ、出来損ないに思われるかもしれない

その恐怖を受け入れて、この世界の美しさ、強さを信じる。世界は地獄なんかじゃなかった。その闇を受け入れていたのは自分の恐れる心だった。
希望とかではなくて、それを自分のなかの真実とすると、この世界はひっくり返る。

まだ、私は大手メディアの操作創作された情報は見ないし、正義感や、世の中の悪いことを糾弾している思想にも触れない。

私の平和はまだまだ不安定で、地獄をすぐに感じたくなるので(刺激が気持ちいいので)、あえて、個人的な主義主張に関わらないようにしている。(自分もしちゃうのに他の人のまで見てリングに上がるまい)

「ひとり暮らしで暇ちゃうの?」と言われるけれど、こころのなかの平和活動は時間がいる(笑)

自分が平和にいると、何故か現実が不思議と平和なので、この活動はいまちょっとやめられない。


「見る」という動きは、私をコントロールする。

見ることを、ただそのまま無防備に受動的にしていると、世界の闇ばかりみる。
排ガス、ゴミ、行列、そのなかのきらびやかな物、お金をかけたもの、豪華なものは、更に闇を誘う。


見ることを選択するのは、自分の世界を選択することのように感じている。


画像1

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?