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ロリコンについて、ショタコンについてメモ

ロリータはウラジミール・ナボコフの小説作品。1955年に発売。問題作とされながらも何度か映画化もされるほど人気を得る。倒錯した主人公ハンバートの悩みや葛藤や見事描かれている。

舌の先が口蓋を三歩下がって三歩めに そっと歯を叩く。
ロ 。 リー 。 タ 。
~上記の内容は、主人公が死ぬ前に牢獄で書いた手紙の中に書かれていた内容である~

主人公は、少年時代に好きだった女の子が死んでしまうという辛い経験をする。大人になっても主人公はその女の子ことが純真に好きなままだった。
そして主人公は、12歳の少女ドロレス・ヘイズ(ロリータ)出会ってからは、ドロレスに自分の好きだった女の子を重ねてしまう。主人公はドロレスに近づくためにドロレスの母親と結婚するが、ドロレスの母は事故で死んでしまうことになる。
主人公はドロレスに愛を迫るが、ドロレスは断固拒否。
のちにドロレスは大人になり、別の男性と結婚してしまう。
主人公は悲しみと倒錯のあまり一人の人間を殺してしまう。のちに牢獄の中に入れられ、そのまま主人公は牢獄で死んでしまう。
ドロレスも出産の際に死亡している。

自分も初恋の虚像を膨らませて、もう女という実像は愛せないなという結論に至ったのでこの気持ちは高校生ぐらいの時に読んで、主人公の性もしくは精神性に共感したのを覚えている。
僕が女の実像を目指す虚像(ニューハーフや、オリエントのダッチワイフ、VRのCG女性、二次元)に心惹かれるのはこういうことなのかと改めて読み進めるとこの歳になって考えさせられる。
ロリも一種の女性の虚像であり、父性愛と、この得も言われぬ虚像愛に突き動かされているのかと自己分析してみるがまだまだお勉強が足りないので、もっとジュニアアイドルのビデオを見ようと意志を固く、硬くしている。

忘れないうちにメモとして書いておく。
ドロレスの愛称をロリータというのは一般的ではなく。作中ではローとなっている。これは中川翔子をしょこたんと呼ぶのに近い現象で。
例えば由美子という女性を
「ユミたそ」とか「ユミコーン」とか特異なあだ名や、愛称で呼ぶ現象と同じである。
最近、モデルの方々で特異な愛称(みちょぱ、とか、りゅうちぇる、とか)
を、よく見受けるが、これは自称なんだろうか?とよく思う。
自称なら、やっていることはハンバードの性愛のようなものでベクトルが自身へと向けられていることか?自己幼稚性への尽きることのない倒錯愛なのか?と今朝考えた。
職業柄、「老い」というものに恐れ逃れための必死の倒錯がこの特異な愛称へと変異しているなら、わかるが、
もし、女性として無意識の自身への女性虚像愛を描いたものなら、それはちょっと違う怪物じゃないかと思っている。

次はハンバード的に、ロリータファッションについて、考えようとしたがファッションは無理です。

またあとで追記

7/31 19時
正太郎コンプレックス。
略してショタコン。
で、正太郎というのは鉄人28号の金田正太郎少年である。
なぜ、ベニスに死すのポーランド貴族の少年タジオに習って、
タジオコンプレックスにならなかったんだろう。
ロリータはロリコンになったのに。

http://1000ya.isis.ne.jp/0161.html 

上記サイトより引用: ロリータ・コンプレックス、いわゆる「ロリコン」という言葉がいつ出回ったのかは知らない。
 しかしたとえば、トーマス・マンの『ベニスに死す』のアッシェンバッハが美少年タジオに狂った初老の男の心の病気の物語であったのに、いっこうに「タジオ・コンプレックス」なる言葉が生まれなかったのに較べると、ロリコンという言葉だけが全世界をたちまち走ったのは、この物語にはハンバートに代表される男性に巣くう忌まわしい少女好みというものが、いかに普遍的なものだったかを告げる秘密が如実に暴かれていたということなのである。
 ロリコンは、ナボコフには気にいらなかったろうが、そのくらい誰にも納得できた心理用語になっていった。

 松岡正剛の千夜千冊にも同じような感覚が描かれている。
この文章を読む限り、「ロリータ」にあまり好ましい印象は持ってない気がする。もっと俯瞰的に、ロリコンを一種の病気としてくくらなきゃ松岡正剛さんには飲み込めないものだったのかもしれないな。このハンバードの文章が手記、手紙として書かれていることにその社会性や世間体が副作用としてあるのなら仕方ないかもしれない。ロリコンを潜在的に持つ人間には届き、ロリコンを潜在的には持たないものには届かない手紙だとするとナボコフの仕掛けは見事なものであると思う。

また書く
7/31 20時
どんどん追記していく。
メモ
失礼、ショタコンも定義上はロリコンの一部で
ロリータコンプレックスに少年または少女性愛となっているので両方みたいですね。
ホモみたいなものか。ホモセクシャル(homosexual)の略。同性愛の意。

学者によって異なるけど
ロリコン
8歳~15歳くらいの少年少女を性愛対象にする。
それ以下はぺドフィリア
7歳以下の幼女を性愛対称にする。

何歳とか関係あるんですかね?見た目と世間体の問題であとはクジラとイルカの定義なみにガバガバだと思う。

ナボコフは「少女は9歳から14歳までのあいだに、自分より何倍も年上の或る種の魅せられた旅人に対して、人間らしからぬニンフのような、つまりは悪魔的な本性をあらわすことがある」としているが

学者によって倒錯を定義し病気として扱っている。
新しい病気を日夜生み出す学者にはほとほと呆れる。

学者たちが研究するのは少年少女に性愛を求めるという心情を非難し泣き叫ぶだけで全く、ナボコフのニンフという概念には追いついちゃいない。

これが芸術家とそれを眺めてるだけで金を得る批評家、コメンテーターの乖離のように僕は感じられる。

7/31 21時追記
やはり、ロリコン(この場合は少女性愛)は日本人の根幹にある新品文化であり、古いアパートほど家賃が高くなるような欧米の文化圏では病的と扱われていても仕方ないのかもしれないと、酒も進みそう考えている。
また、こういったロリコンを反復可能な自然科学的な病(やまい)に落とし込もうとする暴挙が世の中の偏見を生むのだろう。
一件一件ピックアップして考察する猟奇殺人のように、ロリコンという趣向もいろいろとピックアップして考察する必要性を感じている。行き過ぎた父性愛のようなロリコンもあればナボコフの初恋の虚像を追いかける場合もある。また、ロリの対象たる幼女がなぜそういったニンフのようであるのか相対的に研究していく材料がもっと豊富にあれば我々のロリコンとは一体なんなのか?という究明も可能なのだが、ナボコフの意図しない厄介な用語である「ロリコン」はその疑問符に対して扉を固く閉ざされてしまった。
文化としても、概念としても、ナボコフのロリコンはまるで、ロリコンの人間も、そうではない人間も嘲笑い。
本性を見せずにニンフのように旅人を迷わせている。
もう、ロリコンについては書かないと思うがジュニアアイドルは観る。

2017/11/01
少女愛運動(しょうじょあいうんどう、girllove movement/childlove movement)は、少女愛を何らかの意味で肯定的にとらえようとする活動の総称。
少女愛という言葉自体、社会的にネガティヴな印象の「児童性愛」(あるいは「ロリコン」)に対し、美的でロマンティックな言葉による言いかえ、イメージの置換にあたる。これらは少年愛解放運動とあわせて、米国においてはチャイルドラブ・ムーブメントと言われる。

一方的な少女投影はサイケロリコンだとおもうけど、男女互いに共有化された少女投影を大事にしようというスタンスは父性としている。

 世の中、「ょぅじょ…かわいい…デュフ。」というと
「ロリコンだ!危険因子だ!犯罪予備軍だ!」
というけど僕は「ロリコン」という言葉は光と影の部分が当然あり、この共有化された少女投影を大事にしたいというスタンスは行き過ぎた父性として見てあげたほうがいいと思っている。

ただ、その父性とサイケロリコンを線引きできるほど、このロリコン文化が社会的、文化的にも闇に沈められているため境界は危ういし、分別はできないだろうなと考えてはいる。

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