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完成版プロトタイプ




書けませんでした。


なにが?


詩が。


友達が書いていた詩を読んで、それがたいへん心にじんわり広がる読んでて心地がいい詩だったんですよ。


彼女の詩の中で私のお気に入りを一つ紹介させてください。

もともとこの詩は一つの本の中にあったももで、本そのものが彼女の作品なので、一部だけを抜粋してしまっています。失礼を承知でこの詩だけ紹介させてください、すみません。

勘違いされる方がいるかもしれないので言っておくと、詩はポエムじゃないですよ。

この詩を見てポエムと思う人はいますか、いたら価値観の違いでもう説明できないんですけど、これは詩なんですよ。

私の中で、ポエムが“きれいな言葉を綴るもの”だとして、詩っていうのは“なにかの救いになるもの”だと思うんです。


最近、私は生活習慣が乱れきっているので、朝起きて10時だったりすると、はぁ、今日も起きれなかった、生活管理ができないなぁとため息をつきたくなります。

この詩はそれを許してくれました。この詩には自分が普段から感じている情けなさや負い目を「そういう時もあるよね、」と肯定されました。もちろん受け手の分だけ感じ方があると思うので、いまのは私のこの詩に対しての感じ方です。



このようなnoteを続けているだけあって、私は自分の中の思っていることを文章にすることが好きです。なので素敵な詩を読むと自分もこんな詩を書きたいと思ってしまうのです。

それはプレイヤーとしてスポーツをやっていた人がそのスポーツを観戦した時に自分もやりたいって思う衝動と同じようなもので、理屈では言い表せない、本能的に欲してしまうもの。



その衝動に駆られて、まずこの世の中の「詩」と呼ばれているものを知ろうと思いました。
以前から読んでみたかった宮沢賢治の詩集を買いました。



読んで驚いたのは、宮沢賢治の詩にはストーリーがあったことです。

私の詩のイメージは、一文をいくつか置いてふわっとゆるっとなっているものでした。そこにストーリーはなく、あるのは綺麗な言葉だけ。

それに対して宮沢賢治の詩は情景が浮かぶものがとても多い。


(宮沢賢治 詩集 谷川徹三編 岩波文庫 「肺炎詩編 眼にて言ふ」より)


これは伊坂幸太郎の「魔王」という小説で引用されてとても印象に残った宮沢賢治の詩。

死ぬ間際に血を吐いている姿が想像できるのに、驚くほど颯爽としている。


詩集を買って、電車の中で読むうちに

「お」

と思う言葉に出会いました。


「沙漠旅行者」

という言葉。

タイトルでもなんでもない、ただ、詩の中にポンッと一回だけ出てきただけの言葉。


言葉としてはあまりに強く心に引っかかったので、詩が書けそうな気がした。

「タイトル 沙漠旅行者」と打ち込み、3,4行書いた。書いたはいいがうまく書けない。書いた文書が自分になにも響いてこない。


小さい頃、書いてはやめてを繰り返していた永遠と結末が来ない小説を作っていたときと同じ感覚でした。書けそうな気がする、つかめてはいるのに、書けない。


小説も詩も書けない。

書き始めることはできる。しかし、途中で終わってしまう。


途中で終わってしまったものは日の目を見ることはない。

誰かの目に触れることも、影響を与えることもない。


無です。

だから”終わらせること”ができる人はすごい。

作品でも、仕事でも、いろんなものすべて、終わらせることで完成になる。


しかし、終わらせた時点で人はそこに質を求める。

終わらせたモノ同士の質を比べて、勝った気になったり、負けた気になったり。


私は途中であきらめてしまうことが多い。

このnoteにも書きたくて書いて途中でやめた下書きが10以上溜まってしまっている。


日の目をみない、一度は書こうと思った文章たち、あの時の熱量では書けないのだ。無理してでも終わらせれば良かったな、と。不格好でも見栄えが悪くても終わりは完成。未完成でもプロト完成。



小説も詩も書けない私はたとえ不格好でもブログを書き続ける。









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