Like a『春色』バトルフィールド ♯8





 朝校門を抜けて授業のある第一校舎に向かっていると、比呂、と声をかけられた。

 
 振り向くと市村佳乃がいた。

「何の授業?」

 胸あたりまで伸ばし少し銀色っぽく染めた茶髪をかきあげながら、市村が聞いてきた。

「広告論A」

「一緒じゃん」

 あーとうとう大学生かぁ。と言いながら佳乃は隣でついてくる。一緒に授業を受けるつもりらしい。鮮やかな水色のノースリーブシャツに、グレーのタイトなスカートを合わせた彼女は、背筋を伸ばして顎を引いて歩いていた。頭のてっぺんから足先まで硬い芯が通っているようだった。すれ違う男子学生が何人も市村を横目で盗み見ていた。

「同じ高校の人いた?」

「何人か同じ学部のはずなんだけど、まだ会ってないな」

「佳乃も。大学ってホント人が多いねー」ふざけてるみたい、と市村はよくわからない表現をした。市村は自分のことを佳乃と呼ぶ。同じ中学に通っていた頃からこの一人称は変わらず、この存在感のある振る舞いも当時から変わらない。


 中学生の時から市村は完全な美少女だった。肌は異常に白く、顔は首の延長についでにつくったのかよって思うくらい小さくて、怖いくらい目が大きいのに人と話すときは更に見開き、相手の目をしっかり見て話した。誰を相手にしてもそうだった。佳乃が生きていることに誰も文句は言わせないわよ、と全身で表現しているような歩き方を昔からした。そんな市村を、驚くべきことに九十%の男子が好きだった。

 僕も例に漏れず市村のことが好きだったが、その圧力に引いてしまっている部分もあって、自分を失うほど好きになることはなかった。


 中学二年生の時、事件が起きた。包丁を持った男が学校に侵入してきたのだ。

 所々聞き取れないようなことを叫びながら徘徊し、落ち着くよう言った教員の腕を切りつけた。そのまま教室の一つに入って後ろ手で鍵を閉めた後そのままドアの前に立ち、自習時間中だった二年四組の生徒三十七人を閉じ込めた。

 後から聞くところによると、男は心を病んでいたらしい。十代の頃から理由のない被害者意識に襲われ続けた彼は、二十三で就職してから益々妄想が激しくなってしまった。休職して母に連れられ病院に通っていたが一向に良くはならなかった。彼の病気は『他人からの視線』への生まれつきの弱さから来ていて、

「元々こうだからどうしようもない」といったタイプの病み方をしていた。彼は常々ウチの中学の生徒に笑われていると喚いた。きっと俺を失敗例として理科の授業で取り上げて、こんな人間になってはいけないですよと先生が教えているんだ、という混み入った妄想を母親に披露した。そしてその日にとうとう耐えられなくなって家の包丁を持ち出し世界に対して反撃に出たのだ。

 教室の入り口で彼は自分の口を腕に押し付けながらウーウーと叫んだ。口いっぱいに二の腕を噛みながら話すので最初は意味が取れなかったが、何度も繰り返していくうちに耳が慣れてくると、それは生徒に対する説教だということがわかった。バカにするなよ俺のことを。お前らは俺みたいになりたくないとか偉そうに思ってるんだろうが、バカにすることでお前らはジワジワ俺になっていっているんだぞ。その身に覚えのない文句に生徒は悲鳴をあげることも忘れ息を呑んで泣いた。誰もがその男と距離を取って怯えるばかりで何もできない中、何と市村はズンズンと包丁男に向かって進み出たのだ。

「あんたみたいになるわけないでしょ」

 それを聞いて男子が何人か、ひえっと言った。

「こんなことしでかすようなバカになるわけないでしょ。そもそもあんたをバカにした覚えなんてないわよ」一歩二歩確実に詰め寄りながら市村は話し続けた。足を踏み出すたびにその細い体には不釣り合いな程重い音がなり、その一歩毎に包丁男の心を踏みつけているようだった。目を見開き唖然として怯え始めた男に向かって市村はもう二、三言辛辣なことを言った後、響く声で、その決定的な言葉を吐いた。

「あんたがそうなったのは、あんたの責任でしょ」包丁男の事情をこの時点では全く知らないにも関わらず、市村のそれは恐ろしく芯を食った言葉だった。命の危険にさらされて尖った神経が偶然探り当てたのだろうか。それとも市村のような飛び抜けた美少女の言葉には全て、人の弱さをついてしまうような響きが宿るのだろうか。

 おまえに、おまえに、何がわかる!と叫んだ男の言葉が、市村は怒りで聞こえていない様子だった。市村はまた一歩踏み出した。

「何にもできないなら逃げれば?情けない」

 市村のその言葉は、睨み合う二人からは遠くの位置にいた僕の心もえぐった。極限の緊張の中、市村の冴えた言葉は僕の弱いところもついたんだと思う。

 教室には刃物のような空気が充満し包丁男を含め誰もが沈黙している時、僕は気絶しそうなほど怯えながら教室の後ろにあった「あるもの」を掴み死角に回り込んだ。

 ここからは人に聞いた話だ。

 市村の重圧に耐えきれなくなり、このやろう、と叫びながら一歩踏み出した男の側頭部に、僕は奇声をあげて消化器を振り下ろしたらしい。らしい、と言うのはこの時点で僕には既に意識がなかったからだ。包丁を取り落としたのを見てドアを蹴破って先生方が教室になだれ込み、警察が駆けつける前に事件は終わった。

 意識が戻った時僕は保健室にいた。どこか痛くないのか、まだ寝ていた方がいい、と言う保険医を振り切って校門に行くと、生徒と、先生と、警察と、包丁男と、市村で、人だかりができていた。

 警察に乱暴に連れられながら男は、おそらく市村に向けて、叫んだ。

 元々こうだからしょうがねぇだろ、お前みたいに、俺と違う人間にはわからないんだ。市村は答えた。

「甘えるな」

 泣きそうな顔になって男は黙り、そのまま連行されていった。

 男の姿が見えなくなると、市村は膝から崩れ落ちた。今の今まで市村を頭から真上に引っ張っていた気力の糸が切れたのだ。

 自分の両肩を抱きながら小さくなって大声で泣き出した市村の横顔は、どうしてなのか、異常なほど綺麗だった。

 卒業前にもう一つ事件が起きた。市村が僕に告白したのだ。

 校舎裏に呼び出され、顔を真っ赤にして好きだと言われた。中学において、全ての告白は校舎裏で行われるらしい。

 ただただ驚いていると、どうなの?と苛立った市村が返事を急かした。

「僕のどこが好きなんだよ」「強いところよ」買いかぶりだ。市村より強い男なんていない。

 僕があの時包丁男に立ち向かえたのは、市村のあの言葉が、男が脳の一部に持つ、くだらない見栄とかプライドを司る部位を強烈に揺さぶったからだ────何もできないなら逃げれば?情けない。

 美少女が言う全ての言葉を、全ての男は自分に言われた言葉だと勘違いするものなのだ。おそらく、見てることしかできなかった他の男子も同様に揺さぶられていたと思う。自分の男としての存在意義を問われ、情けなく恥ずかしい、金的を掴まれたような気持ちになっていたに違いない。ただ偶然、本当にただの偶然、僕の体が一番に動いたというだけで、あと三秒僕が動けずにいたら、消化器を振り下ろしたのは別の男子だった。

 市村の言葉はとても嬉しかった。男としての最大幸福が全身を走った。すぐにでも抱きしめて、市村の唇に僕の唇を激突させたかった。

 だけど市村と付き合うことはできなかった。

「ごめん、付き合えない」

 何言ってるんだ、あり得ないだろ、お前は男じゃないのか、頭の中の自分が喚いていた。

 校舎裏は僕にとって特別な場所だった。僕にはまだ消化できていないことがあった。目が潤みだした市村を遮るように花びらが舞った。

 窓にひたひたと桜が張り付くのが見えた。風が強いようだ。

 大教室での授業は退屈だった。何人か机に顔を伏せて眠っている。教授が緩慢な動作でホワイトボードに「衰退」と書いた。字が汚い。書いた文字は「衰退」じゃないかもしれない。

「サークル決めた?」

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