Like a『春色』バトルフィールド ♯10
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市村は授業があるからと、千円をテーブルに置いて先に喫茶店を出て行った。カラン、と大きくドアベルが鳴った。
一人で構内に戻ると昼休みが終わる頃で、中庭で食事をとって談笑していた学生たちがそれぞれ授業がある校舎に散っていくところだった。生徒が多すぎる、と何となく感じて、途方にくれた。市村の言葉のいくつかが頭でリフレインしてしまって、何か考えているようで考えられていない状態のまま構内を歩き回っているうちに昼休みの賑やかさは完全に消えて、花びらをすっかり散らせて緑に染まった桜がざわざわと鳴った。部室に寄る気にはなれなくて、そのままアパートに戻り、着替えもせずそのままベッドに倒れこみ眠ってしまった。
ふと気がつくとすっかり夜で、冷えた空気が部屋をいっぱいにしていた。昨日までの春の陽気はどこへ行ったのだろう。
しばらくそのまま横になって天井を見上げていた。壁紙が剥がれかかっている部分があることに気がついた。何か考えようとしたが、怒りと悲しみの中間にあるものが頭をいっぱいにしてしまって、嫌になって再び眠ってしまった。
それからしばらく曇り空が続き、春は盛りをすぎていって、梅雨が訪れた。何度か市村が同じ授業を受けているのが見えたが、遠くに座り僕に話しかけてくることはなかった。
あれから何かにつけて市村の言葉が頭に浮かんだ。そしてダーツバーで聞いた吉原さん達の言葉についても考えた。
市村が間違っていることを言っているとは思えなかった。しかしそう思うたび、拭いきれない悲しみもそこにあることも事実だった。市村が間違っている、と決めつけてしまいたかった。
間違っているとか、間違っていないとかは存在しないんじゃないかとも思った。悲しみは、その二つを実在するものと考えた二人がぶつかり合ってしまうから起きるんだとも思った。しかし、そう結論づけて諦めたくもなかった。そしてそう足掻く僕を冷めた僕が見ていた。
またしばらくが経ち、僕は考えること自体を避けるようになった。
部室に行くこともできないまま、僕はただ授業を受け続けていた。
たくさんの学生が毎日授業を受けている。ある日中庭のベンチで一人の男子学生が数人の女子学生に囲まれているのを見かけた。男子学生は右隣に座った女子学生の手を両手で包むようにして熱心に見ていて、どうやら手相を見ているらしかった。何か男子がひどいことを言ったらしく、女子達が怒っていた。俺ホントは全く手相わからないけどね、と笑いながら言うのが聞こえてきた。少なくとも見える範囲は、世界は健全なんだなと思った。
そしてある日、梅雨の雨が降りしきる中部屋にこもってボンヤリとテレビを見ていた僕のスマートフォンに、潤さんからメッセージが届いた。
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奥の四人がけの席で一人、オレンジジュースらしきものをストローで飲みながらテーブルに両ひじをついて、潤さんがスマートフォンをいじっているのが見えた。潤さんは大きめのグレーのパーカーを着て黒いスウェットパンツを履いていて、部屋着のままここに来たような格好だった。近づくと、僕が声をかける前に潤さんが気づいた。
「お、来た!本当に来たー」
良かったー生きてたんだねぇ、嬉しそうに潤さんが言って、メニューを僕が見やすいように開いてくれた。生きてました、久々ですね、と何となく気まずい気分をごまかしながら言って、僕は向かいに座った。
潤さんからのメッセージは唐突な内容だった。
近くの◯◯ってファミレス来てるんだ、一人で寂しいから来てよ。え、なんで僕の家の近くのファミレス来てるんですか、しかもこんな夜中に、潤さんこっちの方じゃないでしょ家。そんなやりとりの後潤さんの返信はなかった。十分もすると心配になってきて、あわててカーディガンを羽織ってゴムのサンダルをつっかけ雨の中ファミリーレストランに向かった。歩いて一分もかからない距離だからいいか、と傘を差さずに来たのは間違いで思ったよりも濡れてしまった。
「なんで濡れてんのそんなに」
「いやちょっと急いで来たんで」
「えー嬉しい。トキメクなぁ」
潤さんはいつも本当に嬉しそうに笑う。吉原さんも坂上さんも白井さんも好きだったが、潤さんが一番一緒にいて心地よかった。
「なんで、ここにいたんですか。だれか来るんですか?」
「来ないよ」
何でもないように潤さんは言った。好きなもの頼みな奢るから、ほら寒いでしょスープとかたくさん頼みな、そうメニューを指す潤さんの指が、心なしか青白く冷えているように見えた。
「どれくらいここにいたんですか?」
そう聞くと、潤さんはどこか恥ずかしがっているような表情になった。
「二時間以上かな」
「どうしてそんなにいたんですか」
まぁまぁいいじゃん、と潤さんは答えてくれない。僕はコーンポタージュとホットコーヒーを体を温めるために頼んだ。潤さんもミネストローネを頼んでいた。
深夜だからか店内には僕らの他に客が一組しかいなかった。遠くの喫煙席でカップルらしい男女の二人組が大学の課題なのか新聞とノートを開いて難しそうな顔で読みこんでいた。
注文した物が並び、二人でスープをすすりながら何でもない話をした。授業のこと、天気のこと、そういった誰でも話せる話題を口にしながら暖かいコーヒーを飲むと、じんわりと体が温まってきたことがわかった。こんなに僕の体は冷えていたのかと気づいた。
「何で来なくなったのさ」
僕の体温が上がるまで待っていたかのようなタイミングで潤さんは言った。
そう聞かれると、難しかった。サークルに行かなくなったきっかけは市村とのことだったが、ここ最近塞ぎ込んでいる間に、僕はサークルに入ってから少しずつ、自覚できなかった範囲のわだかまりを溜めていたことに気がついた。考えて、結局質問には答えない形で僕は話し出した。
「吉原さんと坂上さんと話した時に」
「あーはいはいなるほどね」
これ以上はいいよ、という風に潤さんは手を振った。
「あの二人はさ、厳しいよね」
「いや、厳しいというか、言っていたことはわかるんですが」
「言う内容が厳しいんじゃないよ。あの二人はさ、言い聞かせてるんだよ。自分をさ」雨の勢いが増して、店内は静かになった。
「あれじゃないの?世界は慣れてる段階だ、とか何とか言ってたんでしょ?」
「はい」
「そう何回も言って、自分たちのことも慣らしてるんだと思うよ」
それって、と僕が話し出すと、店内は益々静かになっていった。僕の声は潤さんにしか届いていない。子供の頃、家の押入れの中に籠り姉と二人で遊んでいた時のことを思い出した。
「それって、辛くないんでしょうか。言い聞かせてる本人は」
「いや、そっちの方が楽なんでしょ。自ら辛い方に行くわけないよ」
「楽ってだけで、少しは辛いんですかね」
「そうだね。でもまぁ、人生の辛さの総量ってのは決まってて、それを分割して受け入れてるのかもしれないよ。これから起きる嫌なことに対して、心の準備をしてるのかも。先にバリア張ってさ。もしくは心を麻痺させてるのかもしれない。みんなしてることだし、健全だよね。偉いよあの二人は。みんながしてることを出来るんだから」
みんなとは一体誰のことを指しているのだろう。
潤さんもまた僕にしか届かないような小さい声で話していたが、そこまで話すと急に声を明るくして、お腹すいたなぁ何かがっつり食べたいなぁと言って店員呼び出し用のボタンを押した。ビーッと大きな音がなり先程までの静けさが破られ、店内に他の客や店員の気配が戻ってきた。潤さんはステーキとライスを頼んだ。オレンジジュースの後にミネストローネ飲んでそのあとステーキとライスって順番めちゃくちゃじゃないですか、と言いながら伝票を見ると、潤さんは僕が来る前にチョコレートパフェを食べていたことがわかった。
「僕はさ、家が普通に厳しかったんだよ」ステーキとライスを一緒に頬張りながら潤さんは言った。
「厳しかったって、どういう風にですか」
「いやまぁ、家族でファミレス行ってもこういう感じに無茶な注文なんて絶対できない感じの厳しさだよ。普通に厳しい、というか、普通に弱いって感じかな。小学校入ったらサッカーやらされてさ、中学行ったら部活入れさせられて、三年生になったら塾行かされて受験勉強させられてさ」
「普通じゃないですか」
「そう、普通に厳しいんだよ。平凡に厳しいの。親も兄貴も普通に厳しくて、絶対普通からは逸れてやるもんかって、普通じゃないものは嫌ですって感じの家だった」
「ちょっと抽象的過ぎて難しいです」
「ごめんね、あんま細かく話したくないからこういう風になっちゃうんだよ」
照れて潤さんが笑うと、再び店内が静かになった。
「そこでさ、ある時気づいちゃったわけじゃん、僕、普通じゃないって。怖かったよ」
「……そうですよね。家族がどう言うかわからないですもんね」
「ああ違うよ。そういうんじゃなくて。……いやこれは僕の回りくどい話し方が悪いんだよね。だめだ、ちゃんと話さなきゃな」
視線を落とした潤さんの顔は、怯えているように見えた。そして僕のために、何か話そうとしてくれていることがわかった。潤さんは慎重に言葉を選び、口を開きかけて、そして閉じてしまった。その姿を見ていられなくて、何か言葉をかけてあげなくてはと思った。
「その、今更なんですけど、あの、聞きたいことがあるんです」
潤さんが驚いて顔をあげた。
「え、何、なんでも聞いてよ。なんでも話すからさ」
「その、潤さんって、男ですよね?」
潤さんの表情が更に驚いて固まった。何秒もそのままだっったと思う。いつの間にか遠くの喫煙席に新しく客が来ていたことに気がついた。男女五人組の、全員が五十代ぐらいのグループで、随分と酔っていて話し声がうるさかった。
「え、ちょっと待って。今更?」
「はい、聞いたことなかったですし」
「あれ、話さなかったっけ?ほらサークル説明会の時とか自己紹介で」
「いえ、潤さんは名前言って終わりでした」
「いやそれにしても、もう会って二ヶ月経つんだよ?」
「見ても、わからないですよ潤さんは」
「わからないまま僕と話してたの?」
はい、と答えると潤さんの唖然とした表情が徐々に崩れていって、あっはっは、と大声で笑い出した。うるせぇなあとでも言いたげな表情で五人組の内の一人の男がこっちを見た。
「てか、わからなかったら聞くでしょ普通」
潤さんは涙を指でぬぐいながら話している。
「聞きそびれたんです」
「比呂のことだから変に気を遣って聞けなかったんでしょ」
「……はい」
「その割には、『潤さんて男ですよね?』って聞き方なんだね。今は気遣わないの?」
「すみません、不用意でした」
「いいよ、僕がさっき変な顔してたから、あえて、なんでしょ」
ありがとね、と言った潤さんの顔は元通り優しくて、お礼を言わないといけないのは僕の方だと思った。
「僕はMTXだよ。MTFだと思ってたけど、MTXかなと思い始めたのは高校卒業する頃で、んで大学入ってあのサークル入ってさ、色々あって、今はMTXでパンセクかなって思ってる」
僕は頭の中で潤さんが言ったことの意味を確認した。MTXとは、男として生まれたが、現在自分は男でも女でもないXジェンダーだと自認しているという意味の言葉。Xジェンダーにもそれぞれ違いがある。男でも女でもあるということと、どちらでもないということと、日によって変わるというのは違う。パンセクはパンセクシャルのことで、全性愛とも呼ばれる。彼らは男性、女性という枠にとらわれておらず、全ての人間、全てのセクシャリティの人間が恋愛対象だ。バイセクシャル、両性愛とはまた違う。
「ご家族はストレートなんですか?」
「いけないんだ、ストレートって言い方だめなんだよ。僕が曲がってるって言いたいの?」
「ストレートが曲がってないって意味で使うこと自体、誤用らしいですよ。ストレートが間違いって言ってる人が言葉の意味を知らないだけなんですって」
「あ、うそ、僕どっかのサイトで読んだのに、ストレートって言っちゃダメだって」
「もとは慣用句らしいですよストレートって。僕も誰かのブログかなんかで読みました。僕が読んだ方が間違えてるのかもしれないですけど」
「振り回されるよねこういうの。まぁいっか。家族はストレートだよ。だからまあ、僕本当に男なのかな?って思った時は怖かったよね。うわ、自然にさっきの話戻ってるじゃん、導いてくれたの?」
「……偶然です、すみません」
優しく微笑んだ後、潤さんはポツリ、ポツリと話し始めた。静かで、途切れない、まるで自分で確認しているかのような話し方だった。
「僕はさ、怖かったんだよ。自分が男じゃないって気がついちゃうことがさ。だから家族に言ったんだ。僕、どうやら男じゃないみたいって。そうしたらさ、怒ってくれるって思ったんだよ」
うん、怒ってくれるって思ったんだよね、と潤さんは繰り返した。
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