Like a『春色』バトルフィールド ♯13
車窓から夏の太陽が斜めに差して座っている僕の足元に影を作った。冷えた車内は季節特有の浮ついた雰囲気で満ちていた。汗かいたんだから帽子とって汗引かせなさいと口うるさい母親の言うことをきかず、お気に入りのキャップを両手で押さえて取ろうとしない男の子が右斜め前にいた。左斜め前では、高校生ぐらいの男女が会話もせず座っていた。男の子は外を見たり窓を見たりしていて、女の子の方はスマートフォンをいじりながら時々男の子の顔を窺っているのがわかった。山間から電車が抜け海が見え始めた時男の子が、海だ、と言って女の子が、うん、と答えた。
「海だよ比呂」
横を向いて後ろ側の車窓から見える景色を眺めていた潤さんが、水平線を指差しながらはしゃいで言った。隣で座りながら体をよじらせて潤さんは海を夢中になって眺めている。春に比べて短くなった茶髪はうなじの所でまっすぐに切りそろえられて、そこから柔らかいにおいがした。
僕と付き合った六月からこの真夏にかけて、元々中性的だった潤さんの服装や髪型はドンドン女性寄りになっていった。縮毛をかけたさらさらの髪は目にかかる高さで真っ直ぐに切りそろえられていて、つむじは日差しを反射して艶やかだった。白いオーバーサイズの無地のTシャツに、腰から足にかけてふんわりと広がったデザインの一見スカートのようなチェックのパンツを履いていて、そのゆるやかな服装のラインのために今の潤さんは近付かなければ女性のストレートにしか見えなかった。首に僕がプレゼントしたシルバーのネックレスが光り、僕の腕には潤さんがくれたスポーツタイプの黒い腕時計が巻かれていた。
海へ行こうと言い出したのは潤さんだった。僕らは付き合ってから色んなところへ遊びに行ったが、毎回デートの提案をするのは決まって僕の役割で、潤さんが自分から行きたい場所を言うのは今回が初めてだった。
電車はゆっくりと海から離れ、いくつもの建物で遮られ水平線が見えなくなった頃に停車した。乗客のほとんどが降りていくのを僕らは座りながら見送り、他に降りる人がいなくなってから最後に降りた。
「僕海で泳ぐの初めてなんですよ」
僕は潤さんの右手を腕時計のしてある左手で握り返しながら聞いた。
「え、泳がないよ今日は」
驚いた様子で潤さんが返した。
「てっきり泳ぐと思って準備してきたんですけど」
「あーだからリュック大きかったのか。泳ぐのなんて嫌だよ、太っちゃったんだもん」
「じゃあ何するんですか」
「これから決めるんだよそんなの。とりあえず海見よ」
そう言って潤さんは僕の手を引っ張って歩き出した。
とりあえず駅からの目抜き通りを歩いていると、立ち並ぶ土産物屋の中に一際行列ができている店があった。大きなガラス窓から覗くとモダンな雰囲気の店内で、客は全員同じ巨大なかき氷を食べていた。どうやら名物らしい。
「並ぼう比呂!」
「え、これ相当待ちますよ。海はいいんですか?」
「夕方だって海は綺麗っしょ。ほら並ぼ」
そういって並んだのはいいものの、恐ろしく進みの遅い列に並んでいるうちに二人とも汗だくになってしまった。
「もう諦めよう比呂」
「うそでしょ、もう半分も過ぎたのに」
「かき氷なんていつでも食べられるよ」
僕の胸にもたれかかっている潤さんの額には汗が滲み前髪が張り付いていた。
「いやでもすごく美味しそうですよ、ほら」
「かき氷なんてどれも一緒だよー。はぁ、仕方ないなぁ」
何とか潤さんをなだめて待つこと一時間、ようやく店に入ることができた。入り口近くの席で西日が熱く、冷房の意味がないじゃんかと潤さんはぼやいていたが、注文した宇治金時を一口食べると機嫌が良くなった。
「これだよこれが食べたかったんだよー。氷が違うよねぇやっぱ」
僕らが食べている途中で数量限定だったかき氷が終わったらしく、そのことを店員が伝えると列に並んでいた人々は残念そうに散っていった。家族づれの父親が何か店員に向かって文句を言っているのが見えた。
かき氷を食べると体が冷えてきたので、僕はコーヒーを、潤さんはアールグレイを頼んで飲んだ。
外では海水浴から帰ってきたであろう人々が駅の方へ歩いていた。浮き輪を膨らませたまま持って歩く女の子がフラフラ歩いていく後ろを、兄らしき男の子が心配そうに着いていくのが見えた。浮き輪で反射して夕陽のオレンジ色がいくつかの色に拡散されていた。
「高校卒業する前あたりかな、家族で海行ったんだよ」
「カムアウトした後ですか」
「そう」
「……前家族がどう思っているのかわからないと言ってましたけど、海に連れてってくれるなら、わだかまりなんて無さそうじゃないですか。じゃないと海なんて連れて行かなくないですか。海ってハードル高いでしょう、水着着るし」
「いや、もちろん僕が提案して無理矢理連れてったんだよ。それこそ意地悪半分でね。思いっきり男物の水着着てやったよ。その時の家族の辛そうな顔見てさ、ああ、やっぱり僕の家族はこの人たちしかいないなって思ったね」
「歪んでますね」
「素敵でしょ」
「素敵です」
色んな矛盾こそがこの人の魅力だと思う。満足そうに笑った後、じゃ海見に行こっか、と潤さんが伝票を持ってレジに向かった。
かき氷屋を出て、辺りを暖かなオレンジ色の光が包む中手を繋いでゆっくり歩いた。小さいが筋張った潤さんの手に汗が滲んで、トクトクという脈を感じた。海水浴を終えてまばらに帰っていく人々に逆らうようにして、僕らは海を目指した。堤防が見えてきたあたりで近くをすれ違った、一人の母親に手を繋がれた男の子が不思議そうに僕らを観察していた。ママ、男同士だよ、とはしゃぐ男の子を、やめなさい、と母親が小声でキツくたしなめる声が聞こえた。そのやりとりが嫌に耳に残って胸が痛んだ瞬間、潤さんがギュッと手を強く握り直した。
堤防に二人で登ると強く風が吹き上がり潮の香りが運ばれてきて、水平線にかかった太陽は赤く光っていた。昼間の地面から立ち上るような熱は落ち着きやがて訪れる夜を予感させ、なぜだかどうしようもなく寂しくなって僕は潤さんに言った。
「潤さん」
「うん?」
「抱きしめてもいいですか」
そう言うと思ってた、というように潤さんは黙って微笑んで両手を広げた。ゆっくりと抱きしめると、潤さんの汗ばんだ体から暖かさが移ってきた。僕が柔らかくしっかりと背中に手を回すと、潤さんも応えるように上向きに僕を抱きしめ返した。
そんな僕らを初老の男性と孫らしき女の子が避けるように迂回した。誰もが一定の距離を置いて通り過ぎていく。空白地帯の中心で僕らは確かに二人きりだった。ここにある親密な空間を、僕は愛しく思った。そしてこの時間を逃さないように、僕はより強く手に力を込めた。するとその手から僕の何かを読み取ったかのように、潤さんの小さくて硬い肩が頼りなく震え始めた。その震えは大きくなり、抑えることができないようだった。怯えているようで、しかし怯えまいとしていることが伝わってきた。潤さんの指に力が入り僕の背中の肉を掴んだ時、僕は愚かにもそこで初めて、もう別れが近いことを理解した。
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