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カフカの欠片

先日読み終わった『カフカ断片集』。未完の断片や創作ノートなどに書かれていた数行の文を纏めたもので、これがいたく気に入った。というより、腑に落ちた。

もともとカフカは大好きで何度も読んでいるのだが、自分が文章を書くにおいて理想だという事に気付かされたのだ。断片や断章であるから、カフカからしてみれば不本意なのかもしれないが、実際は未完でありながら完成している。いや、読み手が余白を想像する事で完成するのだ。作りかけなわけだから起承転結がきちんとしているはずもなく、ただの断片でしかない。にも関わらず、そこには明らかにカフカが居る。欠片であるが故に読み手自身がパズルを組み上げる事ができる。これは僕にとっては至上の面白さであり、実際に書くとなればこれ以上の理想はない。

プロを目指すのであればカフカは決してお手本にしてはいけない作家なのだろう。しかし書く事を趣味にしているだけの人間であれば「こういう書き方もある」という意味で非常に参考になる(書き方の基本を学び、文学的見地への理解をある程度持つ必要はあるが)。

物語の長短に囚われず。
起承転結を意識せず。
されど余白は広く深く。

未完故の結果論とはいえ、これほどまでに自由な形があるだろうか。

創作とは本来どこまでも自由であるべきだ。だがそこに「売る」や「世に出る(認められる)」、あるいは文学への理屈が強くなると、途端に縛りがキツくなる。商売が入れば当然であるし、それでも面白い物が書けるプロも沢山いる。だとしても、僕はカフカの断片という形が理想に思える。

たぶん生前のカフカ自身は「書く」の先に無頓着な所があったのではないか。彼の名がこれほどまでに世に知られたのは亡くなってからだし(彼の作品の大半は遺稿)、親友であり当時の売れっ子作家であったマックス·ブロートが、生前からカフカの才能を見抜き奔走していたと聞く。マックスとカフカのやり取りのエピソードを知ると、マックスはカフカ存命中に何とかしたいという思いが強く、売れる為の手段をカフカに伝えていたフシがある。しかし、カフカは自分のスタイルを変える事はなかったのだろう。それ故に生きている間に陽の目は見なかったものの、死後、多くの才人達に愛され尊敬される作家になった。

『変身』と形は違えどカフカ自身もまた、変身したわけだ。それがまた不条理でもあるのだが。

断片だけを纏め書籍にする。本が売れないと言われる時代において、これは英断だったと思う。そのお陰で僕は一層「書きたい」という感覚が強くなったし、何ならカフカを師と仰ぎたいぐらいの気持ちにもなった。文学的才も文学への見地も非凡だったカフカと、何もない僕とでは大きな隔たりがあるのだけれど。

奥ゆかしく優しい人でもあったカフカ。ひとたび物語れば他の追随を許さぬ筆致で、世界に一太刀を入れ続けたカフカ。

ああ。やはり。カフカはいい。

『カフカ断片集-海辺の貝殻のようにうつろで、ひと足でふみつぶされそうだ-』

フランツ·カフカ著
頭木弘樹訳
新潮文庫

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