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#01 日本の「アドボカシー」を考える

皆さんは「アドボカシー」という語を聞いたことがあるだろうか。辞書を引くと、「擁護」や「代弁」、「政策提言」などの言葉が並ぶ。実際にはもう少し広い意味で用いられていて、社会的・政治的・経済的な制度や仕組みや状況を改善するための活動、といったところか。雑駁に言えば、「社会を変えるための活動」である。

現在の日本で政治や経済に大きな発言力を持っていると言えるのは、特定の業界や大企業を代表するいわゆる業界団体や特定の政党を支持する団体だろう。
しかし、僕はこれからの社会では、市民によるアドボカシーを強化していくことがすごく大事なことだと思っている。

個人が政治的な発信をすることを良しとしない日本の社会では馴染みが薄いかもしれない。でも実のところ、皆が嫌悪感を抱いているのは政治的な発言そのものというよりも、政治的な発言をすることで既存の党派性やイデオロギーと結びつけられることなのではないだろうか。

そのような既存のイメージに縛られることなく、しかし社会的に物申すことができる状況をつくり出さなければ、日本はますます衰退していってしまうのではないかと思っている。既得権益や既存の枠組みに囚われず、柔軟にその時代にあったあるべき社会の姿を構想し得るのは、市民の力だ。いつだって、社会変革の最初の一歩は、勇気を持って異議申し立てをした一人の市民の声や、市民による実態調査だったのだ。

過去には日本でも成功した市民運動がたくさんあり、学ぶべきことがたくさんある。僕が思うに、そうした「社会を変えるための活動」を支えるためには、多くの市民の声とともに、科学的な検証と的確な改善案を示せるような法制度に関する知恵が必要だ。つまり、市民と研究者と法律家が強固に連携したアドボカシーのボディが必要なのである。皆が本来の職能を活かしながら、本業からちょっとだけはみ出して社会がどうあるべきかを考え、その考えと能力を持ち寄るのが理想だ。

こうしたアドボカシーの形は、海外の事例を参考にするのが良いだろう。例えばオーストラリアでは各行政レベルとカウンターパートたり得るpeak bodyという組織体があり、政府と共同し時に対立しながら政策を作る。
韓国では、法律家や研究者も参画した市民団体「参与連帯」が、市民の寄付だけで成り立っており、現在政権に大きな影響力を持っている。もちろん賛否はあるが、市民によるアドボカシーの形として参考にしたいところだ。

韓国は同じアジア圏の中でも、よく市民運動が盛んだと言われる。それはなぜなのかと韓国人の友人に尋ねたことがある。それは、市民が声をあげれば社会や政治が変わるという実感を持っているからではないか、との答えだった。コロナ禍で多くの人があるべき社会の姿を考え、少しずつ声を上げ始めた。現に、10万円の給付金など市民の声によって政治が動いた。日本は今、そうした「声をあげれば社会が変わる」という体験をまさに経験すべき時なのではないだろうか?

デモクラティック・デザイナー 北畠拓也

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