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#07 17歳の高校生が結核病棟に入院した話。

よくソーシャルアントレプレナー的な人のこれまでの歩みを見ると、このことがキッカケになって社会的な使命を感じるに至ったという象徴的なエピソードがあったりする。もちろん、そういった人もいるだろうし、素晴らしい活動をされていてすごいなと率直に思う。正直言って自分はあまり一貫性のない人間なので、うらやましく思う。

一方で(自分はひねくれた人間なので)、みんながみんなそうでもないよな、とも思う。もちろん、対外的に自分について語るために、自分自身もそういったエピソードの「型」みたいなものは用意している。そしてそれは大きな意味ではその通りだし、別に嘘をついていることはない。でも実際のところは「これ」という確たる理由があって今の活動をしているかというと、必ずしもそういうわけではない。今の自分を構成しているものは実に様々な出来事や出会いや、流れみたいなものによる。自分の場合は流れに身を任せていたらここに来た、という印象が強い(逆にこれだけはやりたくない、という意志は結構強かったかもしれないが)。

とはいえ、後から考えればこれはのちの人生に結構影響を与えたなと思う出来事もいくつかはある。前置きが長くなってしまったが、その大きな出来事のうちの一つについて書いておこうと思う。それは、17歳の時に結核病棟へ入院したことだ(結果的に結核ではなかったが)。自分自身が非常に大変な思いをしたということと共に、そこに入院している様々な人との出会いという意味で、高校生の自分にとっては衝撃的な体験であった。だからといってこのことがすぐさまその後の進路選択に影響を及ぼしたわけではないのだが、今につながる重要な経験であったことは確かだ。
まぁ、多くの人は私の人生観なんて関心がないと思うので、一つの闘病体験記として、そういうこともあるのかなと思って読んでもらえれば幸いです。特にコロナばかりが心配な世の中では、逆にそれ以外の病気を軽視してしまうこともあると思うので。

発端は17歳の初夏に遡る。
2007年、私は高校2年生だった。
元々の心臓の持病があったのだけれど、小学生の時に手術をしていたのでその時は概ね普通の生活をしていた。
激しい運動には制限があるものの、家から自転車で15分くらいの高校に毎日元気に通っていた。
1km四方田んぼに囲まれた農道を風を切りながら進む。青春ぽかった。

今の私を知っている人からは想像できないかもしれないが、当時は痩せっぽっちで、よく風邪を引いたりしていた。
その時も、なんのことはないちょっとした風邪かな、という感じで喉が痛かった。
それで咳が出ていたのだが、あるとき痰に血が混じった。毎回ではなく、時々という感じか。
その時はそれ以上気にしなかったが、持病の方の定期検診の時に相談した。
持病の関係で血液をサラサラにする薬を服用していたこともあり、私は普通より出血しやすい状態ではあった。
だから風邪で喉に傷がついたからではないか、ということだった。
すでに風邪のような症状は一旦落ち着いていたし、まぁそんなものかと納得した。

今から思えば何をしていたのか皆目記憶がないが、高校2年生というのは何かと忙しい。
たまたま出た血痰なんかよりも、考えるべきことや、楽しいこと、悩むべきことがたくさんある。
しばらくの間は血痰事件を気にもせずに時がたった。

しかし、なんとなく徐々に体調が悪化していった。
なんとなくだるい、肩が凝る、空咳が出る。
とはいえ急激な変化ではなく、本当に徐々に徐々にそういった状態が進行して行った。
特に秋頃には空咳がひどくなっていった。
そのとき僕は将棋部に所属していたので、「将棋世界」を購読していた。
佐藤康光九段は、対局が深夜に及び集中力が高まってくると空咳がひどくなってくるとあった。
健康でもそういうこともあるんだな、と思った。

正確にいつからかは思い出せないが、また血痰が出始めた。
それは徐々に粘性が強くなり、痰に混じるというレベルではなく痰そのものが血のようになっていく。
しかし、どうもコトの重大さには気づけていなかった。前述の通り、いきなりではなく徐々に変化していったからというのも大きい。確かに1ヶ月前と比べれば大きな違いでも、昨日と比べるとその変化はわかりづらい。そして人間、不調な状態に慣れてしまうのだ。

しかし、寒くなる頃にはどうにも体がきつくなってきた。
だるさもひどいし、やる気が出ない。鬱っぽいのかな?とも思ったが、特にストレスがあるわけでもない。
それにかなりの頻度で寝汗をかくようになっていた。測っていなかったが、微熱もあったのかもしれない。

それから、気づいたことがあった。
どうも右を向かないと眠れないのだ。左を向いて寝ると息苦しい。
そして、自転車で学校に通うのが辛くなった。先述の農道は冬は北風が向かい風になり、元々結構辛い。
立ち漕ぎで息が切れるのは仕方ない。
しかしちょっとした坂道を登るのだけでもかなり息切れをするようになった。親にお願いして車で送ってもらうこともあった。

流石にこれは何かがおかしい・・・次の定期検診の時に聞いてみよう。
そう思っていた時、「ためしてガッテン!」というTV番組で「実は増えている結核」のような特集をやっていた。

・・・ガッテンした。
そこで挙げられていた結核の特徴がまさに当てはまりまくるのである。ひえー。

そんなこんなで、親に病院に連れていってもらおうということに。何かの事情で、すぐには行けなかったので、数日以内に行こうということになった。それまでは学校も休もう。
と思っていた矢先、多分TVをみた翌々日くらいだったと思うが、いきなり40度近い高熱と激しい胸の痛みに襲われた。
ちょっとこれは尋常じゃないということで、夜間だったが救急病院に行くことになった。

ここからの2週間くらいは本当に辛かった。
まず、激しい胸の痛みの正体は右の肺気胸だった。つまり肺に穴が空いている。
交通事故とかで穴が開くこともあるが、この場合は炎症によるものだった。肺炎がかなり進行している。

そうか、右の肺の機能が低下していたから機能している左肺を上にして寝ないと苦しかったのか。
ひとまず、肺に針を挿し、隙間に入り込んで肺を圧迫している気体を抜く。
もはや高熱と痛みで意識は朦朧としているが、この針を刺した時はおそらく麻酔をしていなかったのか?ものすごく痛かった記憶がある。人生で一番痛い記憶だ。ドラマとかで麻酔なしで手術するシーンがあるが、考えられない。

それから、痰の検査を行い、結核の疑惑が出る。
それからはベッドの周りをビニールで囲まれ、よくコロナの報道で見るように医師や看護師が重装備になる。
肺の圧迫感は少しマシになったが、依然として痛みや高熱による辛さは変わらない。
数日はその病院にいたが、どうやらやはり結核だということになり、結核病棟を有する病院に移ることになる。
救急車での長距離移動は辛かった。結構揺れるので、その度に胸が痛かった。

それからというもの、40度くらいまで熱が上がっては解熱剤で下げ、また上がり、というのを繰り返した。
震えるようなものすごい寒さ(実際に歯がガタガタ言うような)と、一方で暑くて耐えられない状態を繰り返し、何枚も何枚も服を着替えなくてはならないほどの寝汗、細切れの睡眠とものすごい悪夢。かなり記憶のない時間もあり、朦朧としている状況が続いた。この時は本当に死ぬかと思った。

1週間くらいだろうか、ようやく熱が上がっても38度、という状態になった。一時に比べるとだいぶ楽になった。それから、何種類かの結核用の薬を飲み進めていったのだと思う。(この辺りの治療の順序は記憶が曖昧なので間違えているかもしれない)

入院して2週間くらいしてようやくどうにかまともな状態に戻ってきた。高校2年生の1月のことである。周りは受験に向けて本格的に動き出す時期だ。そういった焦りもあり、ちょっと勉強してみるか、と思ったが無理だった。
ずっと高熱だったせいか、全く頭が働かない。簡単な数学の問題もわからない。これには参ったけど、まぁ仕方ない。命があっただけでありがたいと思うべきだろう。結核であれば大体半年くらいの入院が予想されるとのことだった。まぁ気長にやるしかない。

そしてその頃;入院2週間後には、少しずつ歩いたりできるようになっていた。そして、徐々に、周りの入院患者のことも目に入るようになる。
そこには、それまでのように高校生活を送っていたら出会わなかったであろう人々がいた。

ためしてガッテンで言っていたように、当時結核患者は増えていたのだろう。
保菌していても全ての人が発症するわけではない。高齢者や、持病を持っていたり、栄養状態が悪いなどして免疫力が低い人の方が発症しやすい。それは他の病気でもそうだが。そうすると、やはり生活環境がよくない人の方が発症のリスクが高いだろう。

結核病棟で出会った人はこんな人がいた。
パチンコ屋で非正規の職員をしていて、妻子がいる。しかし結核になり、仕事も解雇になってしまったという人。
アルバイトをしながらボクサーをしていたが、てんかんを発症、継続するのが難しくなり生活が厳しくなっていったところに結核にもなってしまったという人。
それから失業して家族も出ていってしまい、一人で仕事を探しながら切り詰めていたところ結核になった人。
建設関係の日雇いで(当時はそれがどんなものか知らなかったが)ドヤのようなところで生活していた人。
それから政府の陰謀により病院や公安がグルになって自分を拘束していると思っている人(向かいのベッドにいたが、助けを求めてかなり叫んでいた。高校生の自分はかなりびっくりした。)など・・・。

純粋無垢とはいえないまでも、世間知らずの高校生にとって、こうした状況の人々との出会いは衝撃的だった。感じのいい人もいれば感じの悪い人もいたし、一生懸命働いていた人もいればそうでない人も、とにかくいろいろな人がいた。
しかしいずれにしても、生活環境を整えることが難しい状況にある人が、結核という病気をきっかけに更に困った状況になっている・・・ように見えた。彼らがその後どのような人生を歩むのか、当時の自分は想像もできなかった。

これは2008年1月なのでリーマンショック前の話だ。時代背景を考えると、非正規雇用の人々の不安定さみたいなものものが顕在化していく過程の時期だっただろう。
結核など不可抗力的な躓きによって、更に困った状況になりうる、そういう不安定な状況にある人々がいるということを垣間見たように思う。

ある患者が「何かに取り憑かれちまったみたいだ・・・」と言っていたのが印象に残っている。
色々と五月雨的にうまくいかなくなっていたところ、ついには病気になってしまった、ということを言っていた。

自分の入院生活は突然終わりを告げた。より詳しい検査の結果、結核ではないことが判明したからだ。
結核と同じグループ(抗酸菌)であり症状や治療法も同じなのだが、人には感染しないタイプのものだったのだ。ガフキー値が一定まで下がるまで待ち、私の入院生活は1ヶ月ほどで終わりを告げた。

ただしかなり弱り果てた状態で退院したので(体重は40kg台まで落ちていた)、学校に戻ったのは4月になってからだった。
それから1年近く投薬治療が続いたと思う。赤と青の毒薬みたいなカプセルだったから、友達の前で飲むのがちょっと恥ずかしかった。あとオシッコが赤っぽくなるのも嫌だった。しかし、ありがたいことにどうにか回復した。その後の通院は別の病院に通ったので、結核病棟のあの病院にはそれ以来一度も行っていない。

結核病棟での経験は、身体的な辛さもあり、あまり思い出したくない経験だったと思う。
しかし、あそこで出会ったように、<社会にはいろいろな境遇の人がいる>ということを、実感としてー強烈な体験として刻み込まれたように思う。
しかし、そのような思いがすぐに自分自身に染み込んだかといえばそうでもない。それと同時に、家族がいてくれたことによって自分は生かされているということも、後からじわじわと感じるようになった。もし独り身で同じ経験をしたら?頼れる家族がいなかったら?
こういった体験は、初めは形などがないけれど、徐々に徐々に表面に現れてくるものなのかもしれない。

退院後は受験勉強を頑張ったが、届かなかった。
浪人して受験した時も、第一志望だった理学部には受からなかった。(当時は理論物理をやりたかった。まぁ、頭が足りなかったので今思えば落ちてよかっただろう)
第二志望で記載した生命理工学部に合格して、バイオテクノロジーの基礎を学んだ。しかしもう少し社会に直接コミットすることがしたいなと思い、社会工学科に転学科した。そのころはずっと小さな広告代理店でアルバイトしていた。電通に就職したいなーと思っていた。フワフワとチャラチャラと大学生活を送った。


ところが、である。
なぜかその後から今まで、ホームレス問題や国内外の困窮者支援制度についての研究をしている。
一体どうしてこういうことになっているのか、よくわからない。
全く一貫性のない人生であるが、こうして見ると高校生の時の経験はやっぱり何かしらの影響があったのかな、と思う。特にそれを意識するというわけでもなく、自然とそういった方向に進んでいく、というイメージだ。

少なくとも自分は、困った状況にある人を助けたい!というような純粋な気持ちではない。しかし、どうにもならないことが世の中にはあって、そういったことを目にした以上、何らかのことをしなければいけない(かもしれないという)ような、そういう思いが強いかもしれない。

このことに限らず、その後も様々な人との出会いや出来事、そういった全てに影響を受けて今に至っている。

そしてもう30歳になってしまったが、いまだにどこに向かっているか、はっきりとわかっているわけではない。一方で、朧げながら自分がやるべきことが見えてきたようにも思う。
それだって、10年後にどう思うかは全くわからないが。

少なくとも、今やるべきだと思うことをちゃんと考えて、後悔しないように、過去にも耳を傾けながら、健康であることに感謝しつつ、目の前のことをやっていこうと思う。

特に結論めいたものはないが、この辺で終わりにしよう。


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