沖縄への「無知・無関心」は悪なのか?
大騒ぎなのである。
よくあるSNS内だけの騒ぎではない。Yahooニュースで扱われるほどの騒ぎなのである。
ひろゆき発「沖縄座り込み問題」である。
まあ、挑発的ではある。「リベラル」のハートに火がついてしまうのはわかる。「沖縄の運動をバカにするのか!」というわけである。彼らがそういう「意図」を読み取ること自体は自然だろうとは思う。その気持ちはわかる。
しかし、この投稿が揶揄しているのが「座り込み」という「表現」だということもまた事実なのである。だから、この「表現」自体を主題にするのはけっして不当ではないのである。「問題を矮小化している」とか言うのは勝手だが、初めから議論を封殺するのは「いかがなものか」なのである。
「座り込み」は1日3回(9時・12時・15時)行われているとのことだ。暑い日も寒い日も行われているだろう。いわゆる「運動家」も混じってはいるだろうが、そうでない方もいるだろう。正業を持つ人にとって楽なことではないはずだ。そうした抗議行動自体をバカにする気はない。
しかし、だからと言って、その「1日3回(9時・12時・15時)」が、一般的な「座り込み」という言葉の印象とズレているのではないか、と問うことが不当かと言えばそうではないだろう。そして「ちょっと思ってたのと違うなあ」と感じる人がいたとして、それが沖縄問題への無知・無関心に起因すると断定するのには無理がある。
たとえば、いつぞやの愛知トリエンナーレにおいて、右派の人たちが「座り込み」を断行すると宣言して、実際にやっているのが「1日3回(9時・12時・15時)」であったとしたら、多くの人は「それを座り込みと言うのは無理じゃね?」と感じるだろうし、むしろ他の右派は「それイメージダウンになるからやめてくれ」と言うと思う。
正直、今回露わになった「座り込み」の実態に「え、そうなの?」と思った人は「リベラル」の中にも少なくないと思う(もちろん口には出さないだろうが)。そうした事態を(意図的かはともかく)無視して、「沖縄問題への無知・無関心」を糾弾するところに、「リベラル」の思考の自動化を感じてしまうのである。
実際のところ、「リベラル」の発言の多くは「道徳的非難」である。「沖縄問題に無知・無関心であること」は「非道徳なこと」なのである。いわゆる「道徳的優位」を主張しているのである。まあ、主張するのは勝手であるが、「俺たちは道徳的で、お前らは不道徳だ!」と言い張る人たちは、普通は嫌われるだろう。もちろん中には「なるほど私は不道徳だった。これからはもっと沖縄問題を勉強しよう!」と考える人もいるだろうが、まあたいていは「あいつら怖え。近づかんとこう」となるように思う。こうして沖縄問題はますます「アンタッチャブル」になり、「リベラル」の中だけで熱く燃えあがるのである。
昔から「リベラル」はどうにも「糾弾」に走りがちだ。気持ちはわかる。「知的・道徳的優位」を確信しているのに、どういうわけだか少数派なのだからいら立ちもするだろう。しかし、それを露わにしては引かれるだけなのである。
実際、今回の「糾弾」は運動にとってかなり命とりなのではないだろうか。SNS時代に入り、旧来の戦術が効果を失いつつあるのに、「それを否定することは運動自体を否定することだ」と主張してしまった。それによって戦術の変更を難しくしてしまった。これでは若い人を惹きつけることはできなくなり、運動はますます高齢化してしまう可能性が高い。
大変ハードルは高いと思うが、どうにか「お前は日本側か、沖縄側か?」的な雰囲気を変えていくことはできないだろうか。道徳的に問い詰めるのを止められないだろうか。「無知・無関心」を糾弾することはますます「分断」を押し進めることになる。しかも圧倒的に不利な「分断」だ。
沖縄問題を誰もが納得する形で解決することは、おそらく不可能だろう。だからこそ、問題へのアクセスは容易なものでなくてはならない。「無知・無関心」を敵視していては道は細るばかりである。
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