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不登校は誰の「問題」か

不登校

というと、解決しなければならない「問題」であるように言われる。子どもが不登校になったと言うと、大人たちは、「大変だね」などと言い、原因をあれこれ探し、正していこうとする。

しかし、果たしてその子が学校に行きさえすれば、それがゴールなのだろうか。私は違うと思う。子どもが学校に行かないということは、どちらかと言えば、子どもではなく大人にとって都合が悪い、とういうことなのではないだろうか。

すべての子どもが公立学校を必要としているのか

 例えば学校に行きたくても、行けない子が居たとする。そもそも学校がないとか、そういう場合だ。それならば、それはその子の「問題」であり、解決するべきだ。子どもだけでの解決が無理なら、大人が協力して、学校に行けるようにしてあげればいい。そこが問題のゴールだ。

 しかし、世の不登校児は、そもそも学校に「行きたくない」のが大半である。学校に行っている子どもが、不登校の子どもに対して、「ズルい」ということがあるが、裏を返せば、その子も学校に行きたくないが、親が行けというから行っているのである。また、大人の言うことを聞いて学校に行かないと将来食えなくなるぞ、と脅かされているかも知れない。あたかも「学校に行くこと=学び」であるかのように。

自分の中にも確かに存在していた「学校信仰」

 わたしも、娘が「学校に行きたくない」と泣いた時、娘の将来に対しての不安から、大人になった時にご飯が食べられなくなるぞ、というようなことを言ってしまった。
 しかし、子どもから気づきを得て良く考えてみれば、そもそも将来社会に出て活躍するために学ぶ場所が、必ずしも学校でなければならないのか?ということに疑問に感じた。学校に行けば学びがあるが、学校に行かないとそれがないかと言えば、そうではない。そのことに、なぜ今まで気づかなかったのか不思議に思う。

気持ち悪いほど「変わっていない」

 私が小学校を卒業した20年ほど前から、時代は大きく変わった。ITや、AIという言葉をとても多く見聞きする。工場での作業は機械化が進み、インターネットの普及により、どこでも、誰もが自由に世界と繋がることが出来、自分を表現できる時代。時代が変われば、当然に求められる人材も変わる。しかしその時から、いや、おそらくもっと前(戦後)から、学校は、教育は変わっていないのではないか

 例えば、少子化の中、先生と生徒の比率が変わっていない。元気な子どもは数人でも統率するなんて困難なのに、30人近くも居て、その子ども達が命令されたことを評価されながらやっていくのだとすれば、当然にまとまらず、どんな温厚な先生でも怒号を飛ばしてしまうであろう。先生もいくらプロであっても、人間である。ましてや核家族化が進み、地域のつながりも希薄になったこの時代には、子どもの家庭の問題も複雑化しており、先生一人一人の苦労は計り知れない。
 校内の風景でさえ、20年前と全く変わっていなかった。1対多人数の机の配置、黒板、ランドセル(色は増えた)、鍵盤ハーモニカ、校内のポスターや作品展示でさえ、変わっていない。私は当時の学校に、タイムスリップしてきたのかと思ったくらいだ。

 タブレットの導入等、確かに変わった点もあるかもしれないが、先生の数が減らされていること、もっと言うと教育に金がかけられていないこと。これは間違いないと感じた。

学校に行かなくても勉強はできる

 親が、教育のプロとして家庭で同じことをするのは無理だろう。しかし、日常の中に気付きや興味関心を持てる事は溢れていて、子どもの中の好奇心から、勝手に学びは始まる。そういう時は子どもは決まって、親が驚くようなことをやってのける。キラキラと目を輝かせて自ら始めた事からは、子ども自身が学びとれる量が何倍にもなっているのを感じる。
 例えば、学校の教科を料理に落とし込めば、料理の中には理科や算数があり、レシピ本を見るなら国語や美術まで含まれるし、買い物に行けば地理や道徳も学べるかもしれない。しかもそれらは、五感をフルに使って学ぶことができる。

親の役目

 では逆に、行きたくない学校に行くメリットは何か。私は、協調性を身につけること、また、我慢が身につくことだと思う。
 我慢はするべき時もある。しかしそれも、やりたい事をやる中で必ずぶつかる壁を子ども自身が乗り越えていくことによって、自ら学んでいく。
親が子どもを導くことは、親の役目のように思われがちである。ただそれは、即ち親が子どもの人生に干渉して意図的に壁を退け、好奇心の芽を摘む事になるという一面もあると思う。そうではなく、壁を乗り越える子どもの力を信じることこそが親の役目なのではないかと、最近は思うのだ。

突拍子もない例えかもしれないが、植物だってそうだ。水をやりすぎると根が呼吸できなくなり、根腐れして枯れるし、やらないとまた枯れる。その植物に適した頻度で(必要とした時にだけ)、水をやる。あとはいい土と日光や風通し等の環境があれば、肥料をやらなくても虫や病気に負けずにぐんぐん育つ。

要は何かを育てる時は、信頼と、愛情が必要だということだ。

結論

まだ自分の中で、具体的にどうしていくのが良いのか、結論はない。だがそれでも、いまの考えをどこかに残しておきたかった。
娘は小学校1年生。既存の学校以外の学校見学や、娘や妻との対話の中から、みんなが最も良いと思う道を選ばせてあげたいと思う。そしてまた、今度は清々しい気持ちでnoteに記事を書けたらいいなと思う。

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