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腸をなくした男─目覚めたら人工肛門になったぼくが、 うんちにまみれながらもがいて、 首を吊るまでの五六〇日間─

Kindle 版 第三弾 大好評発売中 !!
大好評をいただいている Kindle 版 Zushi Beach Book シリーズですが、第三弾大好評発売中です。
そのタイトルは「腸をなくした男 ──目覚めたら人工肛門になったぼくが、うんちにまみれながらもがいて、首を吊るまでの五六〇日間──」

大腸癌に罹患、切除手術を受けた結果、人工肛門を造設され、ときにはうんちにまみれ、ときには腹痛に苛まれ、さながら藻掻くようにして生きた 560 日を赤裸々に描いた渾身のドキュメンタリーです。

現在、絶賛発売中ですが、今回は第三章の冒頭部分を特別にここに無料掲載します。どんな壮烈な日々だったか、その一端をお読みください。

 その三 汚れつちまった敷き布団に


 人工肛門という単語がとても身近なものになったのは、だからぼくの場合は大腸癌切除手術をすることが決まってからだ。だいたい腸の一部を体外に出して、そこから排泄物を出すようにするということ自体、いままでの人生で想像したことがなかった。
 芸能人にもオストメイトはいるそうなので、その手の情報に詳しい人は知っているんだろうが、残念だがぼくは芸能界のゴシップを含めて、その手の話題とは接点がほとんどなくなっていたので、まったく知らずにいた。
 この処置がいつ頃から行われていたのかちょっと調べてみたんだが、じつはかなり古くからあったらしい。そのはじめは十八世紀の初頭というから相当なものだ。日本では江戸時代、元禄の最中だ。江戸城本丸御殿の松之大廊下で浅野内匠頭が吉良上野介に刃傷沙汰におよんだのが一七〇一年の四月二十一日だから、相当な昔といっていいだろう。大石内蔵助が吉良屋敷に夜討ちをかけた頃には、オストメイトがヨーロッパにいたということだ。ふむ。
 手術で人工肛門を造設するようになったのはちょっと時代が下った十九世紀になってから。その末期というから、ロンドンではシャーロック・ホームズがモリアーティ教授と闘い、パリでは万国博覧会が開かれ、エッフェル塔が建設され、日本では明治政府により大日本帝国憲法が公布された頃だ。それでもかなりの昔の話だ。さらに安全に手術が行われるようになったのは一九四五年以降のことだそうだ。第二次大戦後ということだね。
 ストーマパウチに話を限定するとこれはかなり新しいものといえる。そもそも人工肛門を造設しても当初は湿布をストーマに宛がったりしていたらしい。日本でもお椀や腹帯を宛がっていたとのこと。
 いわゆる装具らしいものといえば一九五五年にベルトで固定する石田式装具が考案されている。奇遇ではあるがぼくが生まれた年でもある。なんだか因縁めいたものを感じるといえば、ちょっと大袈裟かな。非粘着性のものだったので、密着・密閉性が万全とはいい難かったようだが、しかしなかなかの優れものだ。
 アメリカでは前年、一九五四年に耐水性のビニールに接着剤を施した装具が発売されている。いまの原型といえばいいのかな。それから素材などが工夫されていまに至っている。
 ぼくの臍の横に貼りついているパウチにはそういう歴史が込められている。医療の現場ってのは、前にも書いたけど未来をいっている側面があるので、この装具もこれからさらに進歩していくのかもしれない。
 さて時代はしかし平成だ。ぼくが退院して日常に戻るときに第一に気になるのがやはりこのストーマパウチの処理に関係することだった。それ以外は、確かに食事に気をつかうことはあっても生活自体が大きく変わることはない。
 ひとり退院祝いをして帰宅したぼくが最初にしたことが買い物だった。近所のドラッグストアにいき、使い捨ての手袋がないか探しにいってみた。けれどどこにもそんなものはなかった。病院にはごくあたりまえに置いてあるものだけど、一般的なものかといえぱ確かに違うものな。
 ということで、パウチの処理は素手でやることにした。なに、なにかあれば石鹸を使ってていねいに洗えばいい。だいたいどこで処理をすることになるかも判らないのだ。何セットも手袋を用意して持ち歩くってのはやはりどこかおかしい気がする。手袋に拘って探し回るよりは現実的な解決方法で対処すればよろしい。
 つぎにすぐ隣のスーパーに入っている百均で、風呂用のプラスティックの椅子を買った。これだけはどうしてもマストだと思っていたので、見つけたときには心の中でちいさくガッツポーズをしてしまった。なにも遠慮することはないんだろうが、喜びとしてはその程度のささやかなものだったということだ。
 病院ではそれなりにスペースがあり、手摺りも備え付けられていて、また椅子も置いてあるトイレで処理をしていたんだが、自宅ではそういうわけにはいかない。スペースも限られているし、できたら便座に座ったままではなくて、便器と対面する形で処理をしたかったのだ。
 この便器と対面して処理するというのが、以降、ぼくの中ではストーマパウチ処理の標準的なスタイルになった。これ椅子がなくて、便器と対面しようとすると蹲踞したままとか、中腰になってやるしかなくなるわけで、これはかなりの苦痛をもたらすはずだ。パウチの処理するたびに空気椅子なんてことになったら、ちょっとした拷問に近いからね。
 あとはついでにボトルタイプのタッパーを買っておいた。もしかしたらパウチの処理のときに使えるかもしれないと思ったのだ。まぁ、実際には違う使い方になっちゃったけど、買っておいてよかったことは確かかな。
 まるまる二週間、家を空けていたわけだが、家に戻って最初にやったことは観葉植物の水遣りだった。意外に思うかもしれないけれど、二〇一七年の二月にぼくは観葉植物、クロトンのちいさな鉢を買って、せっせと水遣りをするようになっていた。
 逗子に戻ってきて、独りで住むようになったのが二〇一四年の五月なんだが、それから三年ほど自分が住む場所に対して愛着なんてものの欠片はなかったし、快適な場所にしようという考えがまったくなかった。
 知人が好意で貸してくれた部屋なんだが、通過点だと思っていたからなのかもしれない。まぁ、それが通過点どころか思いもしないほど長く住むことになっていたわけで、鉢を買うときに、どうせ住むのならすこしでも気をつかってみようという気になったからだと思う。
 同じ時期にそれまでメインで使っていた部屋の照明を買い直している。それまでは裸電球がぶら下がっていたんだが、和風のぼんぼりタイプのものに変えてみた。ちょっとだけお洒落な雰囲気になった。
 こうなるとすこしでもいいから潤いを求めるようになる。ということで、まずはクロトンを買い、しばらくしてからモンステラやドラセナを買い、次にちょっと大きめの鉢のポトスとテーブル椰子、さらにはガジュマルを買って、部屋のあちこちに置くようになった。
 建物自体は還暦を過ぎた、それこそ地震に襲われたら瞬く間もなく瓦解するかもしれないような家だったけど、すこしだけ人が住んでていてもおかしくない部屋になったような気がした。いや、こんなことならもっと早くからインテリアってものを考えてもよかったんだよなぁ。
 この時期はもしかしたらなにかを諦めていたのかもしれない。人として生きるということにだ。自分を蔑ろにしてただ毎日を過ごす。文字通りただ時間が過ぎ去っていくのを傍観していて、自分の人生というものを真っ正面から見ないようにしていたのかもしれない。
 いまになって思うんだが、どうも人というのは生きる希望というやつが必要なのかもしれない。そういう意味ではこの頃、というかここ何年、もしかすると十年単位で、ぼくはただ惰性で時をやり過ごしてきたように思う。その結果がこの大腸癌だったのかもしれない。だとしたら、これは起こるべくして起こったことなのかもしれない。因果応報とまではいわないけどさ。
 さて、家に戻ってしばらくしてストーマパウチの処理をしている。昼に呑んだビールのお陰かちょっと水っぽかった。買ってきたばかりの風呂用の椅子に腰を下ろして、便器と向かい合う。なかなかいい塩梅だった。高さもちょうどいい。これなら慌てることなくきちんと処理できる。
 トイレットペーパーを折りたたんだものを三つほど用意して、処理してみた。おもしろいもので病院のトイレだと、このトイレットペーパーは多めに用意するようにしていたんだが、自宅では三つで充分だった。これがパウチ処理の定番になった。以降、自宅では用意するトイレットペーパーのセットは三つ、自宅以外では四つか五つがひとつの基準になった。
 これはぼくの性格なんだけど、たとえば折りたたむトイレットペーパーの長さもきちんと決めておかないとなんとなく落ち着かないのだ。細かい性格なのかな。よく仕事先では血液型はA型?って聞かれたけど、ぼくはB型だ。くだらないところで美意識が発動するタイプなのだ。
 たとえばMacの画面上にウインドをいくつか開くとき、すべてのウインドのサイズは同じにしたくなるし、重なり具合も同じようにしたくなる。そのくせいい加減なところは思いっきり杜撰だ。部屋の掃除にしたって四角い座敷を丸く掃くタイプだしね。ま、つまらないところに拘ってしまうということかな。ちなみにぼくは血液型占いはいっさい信用していない。これでも大学では心理学を学んでいるので。
 一度、家でパウチの処理がきちんとできるとなんとなくモヤモヤしていた不安が綺麗になくなってくれた。やはり退院後に一番気になっていたのはこのパウチの処理だったのだ。まわりには看護師の人はいないし、なんでもひとりでやらなければいけないわけだしね。だから躊躇している暇はないので、そのときにきちんとやれることをやらなければいけない。
 パウチの処理をして落ち着いてからぼくは逗子へ向かった。東逗子から電車でひと駅。海へ向かった。この日、逗子海岸は海水浴場の最後の日だった。逗子は毎年、関東では一番早く海開きをする。この年は六月二十九日が海開きだった。そしてこの日が最終日。夕方の海はまだ夏を惜しむ人たちで賑わっていた。今年の夏はぼくにとっては病院の夏だった。いつもは海を楽しむ夏だったのに、それがもうふつうには海を楽しむことのできない身体になってしまった。
 それでもそこにあるのは海だった。海はいつもここにある。いつもの表情で、なんにも変わらずにここにある。変わってしまったのはぼくの方だった。これからこの海とどんな付き合い方ができるのか。それはこれから考えていかなければいけないことだった。
 遙か彼方、太平洋を渡ってきた潮風を胸いっぱいに吸い込んで、ぼくはすこしだけ哀しさを味わっていた。それはまるで海水を飲んだときと同じように、ちょっぴり塩っぱかった。寄せる波音を聞きながら海岸中央から東浜まで散歩したぼくはそのまま海を後にした。いつまでも潮騒が耳に残っていた。

まえがき・第一章 第二章

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