問題行動の時こそ、子供のプライドを刺激してみよう。

レトリカ教採学院(教採塾)、学院長の川上です。

問題行動においては、どの教師、どの学校でも同じでしょうが、何度言っても同じことを繰り返したり、反抗的な言動をとったり、授業中、友達の席に雑談をしに立ち歩いている子供1人を、ようやく席に戻したと思ったら、また別の子が立ち歩いたりして、埒があかないことが、あると思います。

指導する先生も、思わずイラっとしたり、腹が立ったり、傷ついたりすることも、あるかもしれません。

しかし、子供というものは、そういうものです。
いちいち感情的になったり、怒ったりしたところで、基本、のれんに腕押しです。

そもそも、これらをすべて、「問題行動」と言うべきかどうかも、よくよく考えないといけません。

行動の裏には、子供のいろいろな考えや、悲痛な叫びもあるかもしれません。
強制的な指導が嫌なのかもしれませんし、禁止事項ばかり言われて、うんざりしているのかもしれませんし、授業が退屈だから立ち歩いているのかもしれませんし、教師との信頼関係が構築できていない(あるいは、嫌われている)のかもしれません。

教師にとって、授業を回すうえで、都合の悪いものを、すべて「問題行動」という言葉で片づけることにも、私は疑問を呈します。

教師の指導で、どうにかできる/コントロールできる。
そう考えるほうが、教師のエゴ/過信なのではと、現場に入ってみて、改めて強く感じます。

話は変わりますが、面接の場面指導的な質問では、よく「怒るのではなく、叱る」という語りを、聞くことがあります。

私としては、この語りには反対です。
学問をやってない人の語りだな、というのが、すぐに分かります。

結局のところ、怒鳴るも、怒るも、叱るも、同じなのです。

もちろん、言葉で聞くと、違う印象を感じる人もいるかとは思いますが、結局、最終的には、怒鳴るも、怒るも、叱るも、すべてにおいて、教師の感情が入っています。

怒鳴ろうが、怒ろうが、叱ろうが、感情が入っている以上、最終的にしんどいのは教師です。

「冷静に叱る」という人もいますが、必ずイライラやモヤモヤが残ります。

冷静に叱ったところで、「何がしたいの!」、「なんでそんなしょうもないことを・・・」、「ばかばかしい」と思ったことが、あると思います。
あるいは、職員室に戻って、ほかの教師に、「なんなんですかね!あいつら。」という感じで、雑談交じりの吐露をこぼすことも、あると思います。

結局、その時点で、感情が入っているのですよね。

「子供ってそんなもんだよね。」と考えられない限り、「叱る」という表現をしたところで中身は変わりません。

つまり、結局は、「怒鳴る」「怒る」「叱る」という言葉の違いで遊んでいるだけで、やっていることは同じなのですよね。

本当の意味での優秀な教師は、怒鳴ることもせず、怒ることもせず、叱ることもせず、子供達を導くのですよね。


導くとはどういうことか。

問題行動のときこそ、プライドを刺激してみるのです。


例えば、

事例①:
業間休み・大休憩で、家から持ってきたカップ麺を、教室で食べている子供がいたら、あなたはどう声をかけますか?

間違っても、

「なんで関係のないものをもってきているの!」
「勝手なことをしちゃだめ!」
「なんで、今食べてるの?ダメでしょ!」
「今食べる時間じゃないでしょう!」

というような指導は、いただけませんね。
これら全部、教師都合の指導でしかありません。
そこに、傾聴も何もありません。

私なら、まずは、「お湯はどうやって調達したの!?」と聞きますね。

私も過去に、実際にこのような場面がありましたが、カップ麺を食べていた子は、「魔法瓶のボトルにお湯を入れてもってきた。」と話してくれました。
もう、学校で食べる気満々の確信犯ですよね!(笑)

それでも、私は続けて、「よく考えたね!用意周到だね。」と、まずは、その賢さを認めます。

もちろん後で、諸々の指導はしますが、まずは、命に係わる問題行動でなければ、思考力・判断力、賢さを認めてあげることも、時には大切です。

Xのポストか、インスタの投稿で、『体育館裏でデリバリーピザを宅配していた生徒がいた。モヤッとした。」という投稿を見かけたことがありますが、モヤッとする必要もありません。その時点で、感情的になっている証拠です。

私なら、「お腹すいてたのか!しかし、よく思いついたね!(笑)バレるかどうかドキドキしながらの、背徳感あるピザの味はどうだった?でも、結局、バレたから、ダメだね~。」くらいの余裕をもって、まずは声をかけていきますね。

事例②:
給食の準備が始まると、勝手に校庭のブランコで遊んで、教室に帰ってこない子たちがいたら、あなたはどう声をかけますか?

給食の時間になると、いつも校庭のブランコにエスケープする子供たちがいます。
準備や配膳は全部、人任せで、自分達は給食が配り終えられた後で、しれっと教室に帰ってきます。

さて、皆さんならどう声を掛けますか?

これまた、間違っても

「給食準備中でしょ!教室に戻りなさい!」
「勝手なことしないの!」
「他の配膳している子たちが迷惑するでしょ!」

なんて声掛けをしては逆効果です。

私なら、まずは、「せっかく数人が並んでブランコしているんなら、隣の子と振り具合を綺麗にそろえて、こいでみなよ!」と伝えますね。

子供達は、自分達が勝手なことをしていることは、百も承知です。
その上で、自由を求めて、あるいは、単純にブランコが好きで、やっているに過ぎません。
一方的に叱ったところで、聞く耳をもちはしません。
「ウザい先生が来た。」くらいのことにしか思われません。

だからこそ、「どうせ、また叱られる」という想いを転換してあげることが大切です。

これも実際にあった、過去の事例ですが、怒られると思った子供達は、私のその一言に、キョトンとしてブランコを止めました。

すかさず、「いいから、ほら、隣の子と振り幅合わせて!きれいにこぐことができるかな?それとも、できそうにない?」と伝えます。

子供達は「よっしゃ!」と言いながら、一生懸命、合わせて、こぎだします。

合わせてこぐことができるようになったところで、「いつも塾や授業で、自由な時間ないんでしょ。たまにはこういう日向ぼっこもいいよね。じゃ、明日はまた、もっと早い段階で、合わせられるようにしておいてね。また見に来るからね。」と、さらに声を掛けたら、子供もサッと切り替えて、教室に戻っていきます。

数日くらい、同じようなやりとりが続いたのち、パタリとその行動はやみました。
満足すれば、子供たちも、教師から見た問題行動というのは、おさまります。次の新たな興味関心に移るものです。
ずっと、同じ行動を繰り返すわけでもないのですから。

そこを待てるかどうか。教師の寛容さが試されます。

子供からは、「ほかの先生は、いつも『先生の話を聞け』っていうけど、私たちの話はいつも聞いてくれない。」と、嘆いていました。

大人だって、ぼーっとしたいとき、自由にしたいときはありますよね。
がんじがらめに、クラスも勝手に決められ、時間割も勝手に決められ、ちょっとはみ出すとすぐ怒られる。

そんな学校生活も、今の子供たちにとっては、窮屈でしかないのかもしれません。

繰り返しになりますが、命に係わるようなことでないならば、怒ったり、叱ったりする必要もありません。

どの学校でも、感情的になる教師が、あまりにも多すぎます。

廊下を走っている子供がいても、すぐに「走るなー!」とか、「なにしてんの!」と叫んだり、怒ったりします。

「廊下は歩きましょう!」、この一言でいいのです。
そもそも、学校の廊下は、どこも、100mくらい続く、一直線な廊下です。

そりゃ、走りたくもなりますよ。一直線で見通しが良くて、楽しそうですもの。
それが子供というものです。

毎日指導したところで、誰かは必ず、廊下を走りますよ。キリがないですよ。
それが子供というものです。

だからこそ、毎回感情的になって叱っても、教師が疲れるだけですし、「なんで言うこと聞けないのか!」と、子供を悪者にした思いしかこみあげてきません。

子供、教師、どちらにしても、怒ったり、叱ったりすることに、メリットはありません。

その都度、「廊下は、歩きましょう。走りませんよ。」その一言を伝えていく他ないのです。

最後に。

教採志望者の面接の語りを聞くと、「褒めるときは褒める。叱るときは叱る。」というフレーズを、よく聞きます。

「そういうならば、こういう問題行動とされるときこそ、褒めてごらんよ!」と私は思いますね。

結局これも、いつ褒めるのか、いつ叱るのか、それは、教師の主観でしかありません。教師の感情でしかありません。
教師都合で、公平・公正な指導とは言えません。

そして、事例①・②のときのように、認めてあげる余裕さえ、ないのです。

こういう語りをする人こそ、まさに、感情的な教師なんだろうな、というのが、よくよくわかります。

また、本当に普段から、褒めたり叱ったりしている教師というのは、それが当たり前なので、これみよがしに面接で、「褒めるときは褒める。叱るときは叱る。」とは言わないんですよね。

普段からできていない人、信頼関係が構築できていない人、指導力不足の人に限って、こういう語りをします。

私が面接官なら、「あぁ、主観で子供の行動を判断する人なんだろうな。『人の迷惑になるようなことはするな』とか、そういう抽象的な指導もする人なんだろうな。指導力が乏しい人なんだろうな。」としか思いません。

「問題行動」が起こっているときこそ、認めてあげて、プライドを刺激してあげてみるのも、一つの手です。

まさに皆さんが好きな言葉でいうと、これこそ、「寄り添う」ことなのではないでしょうか。

このような、寛容で受容的な態度、共感的な理解ができずして、「寄り添う」という言葉を面接で語る人もいますが、本当に、口だけだなと思ってしまいます。

「この先生には敵わないな!(何枚も上手を行くな。ほかの先生とは違うな。)」と思わせられる、そんな余裕をもった、寛容な指導ができる教師、感情だけで物事を判断しない教師が増えてほしいものですね!

ではまた!

レトリカ教採学院(教採塾)
川上貴裕





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