チキサニ ―巨きなものの夢― Chapter.7

 シンが残したディスクは膨大だった。

 キャビネットの一つの引き出しに詰まったディスクを見終えるのに1週間はゆうにかかった。

 はじめは、シンが多忙な仕事をこなしながら、いったいどうやってこれほど膨大な記録を残せたのかが不思議だった。しかし、内容を追っていくうちに、こうした積み重ねこそが、彼の斬新なアイデアや緻密なゲーム構成の源泉だったのだと理解した。

 当然だが、記録の中には、ゲームに関するアイデアをまとめたものが多かった。それは、彼が手がけて、すでに世に出ているものから、将来のリリースを見込んだものもあった。

『シミュレーションゲームの可能性』というタイトルが付けられたディスクは10枚ほどあって、通しナンバーがつけられていた。

 スーパーカーがサーキットを疾走する動画に、数々のデータが添えられている。有名な食品メーカーやスポーツ用品メーカーなどのロゴを入れてデザインされた3Dサンプルが多数ある。さらに、今度は仕様書のようなものと、アーケードゲーム用のキャッシュカード兼データ記憶用のICカードの詳細な設計図面がある。

 レースゲームは、ずっと昔にシンが手がけたものだし、それを実際のレースと同じようにメーカーロゴを入れて協賛を図るといったアイデアも彼のものだ。

 また、アーケードゲームカードは、数年前に実用化され、今ではすっかり浸透して、ゲームセンターはすべてキャッシュレスになっている。このカードは、ゲームでいい成績を収めれば、そのポイントが加算されて、その分ゲームが楽しめるもので、また、ラリーやストーリーゲームのように長いスパンのゲームでは、このカードが途中までの進行をセーブしておいて、つぎにゲームセンターを訪れたときには、そこからゲームが続けられるといった仕組みになっている。

  アーケードゲームに続いて、コンシューマーゲームについてのアイデアがあった。

 ウォーゲームやレースを通信回線に載せてリアルタイムの対戦型ゲームとしたネットゲーム。同じくネットゲームで、一時期、インターネットでも類似のものがたくさん出た都市開発シミュレーションや政治シミュレーション。さらに、様々な分野のアーティストたちが、ネットを通じてコラボレーションし、そこにプレイヤーが介入して作品を作り上げていくという実験的試みを行ったときの記録も、彼らしく、3D化されて残っていた。

 アーケードでもコンシューマーでも、中にあるビジュアルイメージは、大規模な記憶媒体の特性を生かして、ある部分にポインタを合わせてクリックすると素材情報や設計図が表示されたり、実際の場面にジャンプしたりと、ハイパーリンク構造になっている。一つのオブジェクトに、それこそ数百にも登るボタンが仕込まれており、それが音声や3D動画、VRML空間サンプルにリンクされ、それを辿るだけで、ストーリーゲームの複雑なメイズの中にいるのに等しかった。

 内容は多彩で面白いが、これらは、シンの仕事の文脈からして、至極当たり前の記録ばかりでもあった。

 ところが、通し番号の終盤のディスクになると、中味が一変した。

 そのほとんどは、宗教的、あるいはサイケデリックとしか表現できないような、奇妙なイメージで埋めつくされていた。

 朧月のような赤い球が宙に浮かんでいる。そこから黒い陰毛のような触手がわきだして、たちまち表面を繊毛のように覆いつくし、さらに四方八方へ伸びていく。それが画面いっぱいに広がると、今度は入り組んだ茨の枝に変わっている。

 さらにうごめく枝が収縮して、球になり、もとの朧月に戻ったかと思うと、そこからまた陰毛がわきだし……と画面は無限音階を刻んでいく。

 オレンジ色の液の中に広がった無数のニューロン細胞が、結節を細かく動かして、新しい神経回路を次から次へと作り、その回路に沿って青いスパークが飛びかう。だんだんと動きは激しさを増し、まるで万華鏡を素早く際限なく回し続けているように、画面全体が定まりなく歪んでいく。

 ただのホワイトノイズが、凝視しているうちに小さな骸骨たちのダンスに見えてくる。ホワイトノイズの白い炎の中で、蝿くらいの大きさの髑髏が、カタカタと笑い、陽気に踊りながら上から下へ、そしてまた下から上へ対流するように動いていく。

 それを凝視しているうちに、かくし絵のように大きな骸骨が浮かび上がってくる。小さな髑髏たちは対流しながら一つの骸骨を描いているのだ。

 プログラマーらしく理路整然と、しかも緻密に構成されていた仕事の記録とは打って変わって、それは、ドラッグ体験をそのまま写し撮ったような、混沌の渦巻く代物だった。

 これも、シンが自分で記録したものなのだろうか? そんな疑問が生まれた。

 そのカオスの映像を食い入るように眺めていると、それが、何か意志を持っているように思えてくる。それはまるで、ぼくの思考に反応するかのように、微妙にランダムな変化を起こしていくのだ。シンは、この中に、何かメッセージを残したのだろうか?

 しかし、それを眺めつづけても、ただ眩暈の奈落に引き込まれていくだけだった。

 あの事故から1ヶ月が経ち、ようやく会社の機能が復活した。

 シンのセクションでは、大幅な配置替えが行われた。彼の仕事はハード、ソフト両面にまたがっていたし、そもそもそのセクション自体が彼のアイデアを具現化するために設置されたようなものだったので、彼をなくした今となっては、存在の意味がなくなってしまったのだ。

 それでも、彼が、消えたときのようにまたふいに戻ってきてもいいようにという配慮でもあるのか、あのカプセルと、彼の個人用オフィスだけは残された。

 コンシューマーゲーム用のシナリオを作るというぼくの仕事は、あいかわらずのルーティンワークだった。このセクションだけは、激流に洗われる頑固な岩のように、いつもと変わらぬ雰囲気が保たれていた。

 ぼくは、それをいいことに、会社でもシンのディスクをチェックすることに没頭した。

 あのスロットに残されていたNo4のディスク。そのデータは、停電の中で失われてしまったが、コピーがかならずどこかにあるはずだ。

 シンでなくとも、プログラマならバックアップを取っておくのは、あたりまえの習性のようなものなのだから。

 あるディスクには、星の瞬きや、麦畑を揺らす風、そして台風の発生から消滅までを追った衛星写真データとともに、次のようなメモが添付されていた。
『物質の原点となるベビー宇宙の量子的な揺らぎは、密教でいう心界、アラヤ識と同じもの。いまも物質界と同時にパラレルに存在しているその“揺らぎ”を表現できるものがあるとすれば、それはコンピュータに違いない。原理的には新たなリアリティを創り出すことは十分に可能なのだから』

 さらに、人間の脳の詳細な3D映像にコメントが続いていた。
『人にとっての現実は、犬や豚にとっての現実とどこが異なるのか。たしかなことは人にとって現実とは認識に他ならないこと。犬や豚にとっては、あるがままのものが現実といっていいが、人間には“あるがまま”に外在するものなんて、なに一つとしてありえない。外在するものも内在するものも、本人が認識することによってはじめて、そこに“存在”することになる。そこにモノがなくても、“ある”と認識することによって、それは“ある”のだ。夢から永遠に醒めなければ、夢は現実として永遠に存在し続けるのだ』

『アルカイックな技法の中には、聖なる食べ物によって別種のリアリティを獲得するものが多い。インカでは、聖なるキノコテオナナカトルが、生贄の戦士が黄泉の国に祝福されるために用いられた。ヴェーダのソーマはアムリタ(不死)をもたらす飲物としてあがめられた。アメリカインディアンのある部族では、ペヨーテが戦士の魂を強化するために用いられる。シベリアのシャーマンは白樺に生えるベニテングタケを食べて生まれ変わるとされる。いったん死んで、内蔵は全て新しく再生し、骨は鉄より堅くなるのだという。エレウシス密儀ではキニケオン(詳細は不明)が使われたという。デュオニソスのアルコール、イスマイル派のアヘン、道教の“房中”だって、同列の食べ物といえないこともない』

『ドラッグ……たしかにドラッグは、別種のリアリティを獲得するためにはもっともてっとり早い手段だ。しかし、これは微妙な管理が効かない、依存性が高すぎるという致命的な欠陥を持っている。ただ、それが見せてくれるイメージ世界はひとつのモデルにはなる。でも、ジョン・リリーのように、LSDを服用してアイソレーションタンクに入るのではあまりにも特殊すぎる』

『ユング=集合的無意識、シュタイナー=アカシャ記録、ライヒ=オルゴン、ワトソン=コンティンジェントシステム、ウィルソン=X機能、大日滅心、プリママテリア、……すべて同じことを指しているのではないのか?』

 これが、新しいゲームに関連する記述だとしたら、シンは、いったい、何を目指していたのだろう。

 彼は、一緒に酒を飲んだあの晩、たしか、こう言っていた。
「こいつは画期的なゲームになるはずだよ。いや、もう、ゲームなんて範疇を超えて、新しい認識、存在の新しい次元を築くはずだ」

 新しい認識、存在の新しい次元……シャーマニズムやドラッグ、ニューサイエンス、スピリチュアリズム、それらも同じものを追求しているかもしれない。

 彼は、いったい、何を思いついた、あるいは見つけたのだろう。

 それにしても、プログラマーとしての教育を受け、純粋にプログラミング畑だけを歩いてきたシンが、いつのまにこのコメントにあるような神秘主義やニューサイエンスにまつわる知識を仕入れていたのだろうか?

 ぼくは、シンと出会う前に、怪しげなサブカルチャー系の出版や三流週刊誌の編集に関わっていたことがあった。その筋の世界では、こういったことはかなり馴染みのあることだが、シンが身を置いていた純粋な論理と計算の世界からは、いちばん遠いところにあることではないだろうか。とくに、極めて論理的な思考をするシンにとっては、そんなあやふやな世界は、唾棄すべきものではなかったろうか。

 このイメージは、シンのものであるようには思えなかった。

 ぼくは、このディスクの世界に没入しているうちに、妙な既視感を抱いた。

 脳の3D映像も、やはりハイパーリンク化されていた。

 半透過された脳の3Dマッピングには、様々な部分にドットが打たれている。適当なドットにポインタを合わせてクリックすると、細かい書き込みや概念図が現われる。

 たとえば、ある点は、→記憶領域(遠過去=ノスタルジー、とくに音楽に対する反応が鋭い)とあり、様々なジャンルの音楽に、それぞれ違った脳波反応が現われる様子が、カラー変化で表現されている。それに隣接するドットをクリックすると、→記憶領域(近過去=あらゆる刺激、音、嗅覚、視覚、触覚に対して反応)と出て、実験による反応の様子が克明に記録されていた。さらに、いくつかのドットをクリックしてみる。→快感(視覚=黄色)、→快感(視覚=赤)、→快感(聴覚=高音領域)……、→論理(数学的論理に反射)、→論理(推論=短絡的な類推)、→論理(推論=比較的入り組んだ類推を行う)……、→恐怖(畏怖=とくに目上の人間に対する)、→恐怖(畏怖=観念的存在、神などに対する)、→恐怖(肉体的苦痛に対して=とくに左下半身の温度刺激)、→恐怖(肉体的苦痛に対して=頭部への打撃に対する)……、→不明(刺激に対して体温を上げるなどの肉体的反応がみられることがあるが、どんな刺激がそれを誘発するのかわからない)、→不明(ここを刺激すると、脳全体から脊髄にかけて微弱な電気が走る)、→不明(ある定数以上の電気刺激を与えると、チックを誘発する)……。それは、詳細な脳ナビゲーションのようなものだった。さらに、どのような刺激によって脳内のどの部分がリンクするか、シナプスの動きやドーパミンの働きまでもが、そこには記録されていた。

「……ぼくたちは、現実の中で、あらゆるものは自分の外側に独立して存在しているとの確信に基づいて生活している。でも、じつは完全に客観的に外在するものなどない。そこに存在するとぼくたちが思っているものは、刺激を感じて脳が生み出しているものでしかないんだ。脳に体験させるということは、実際に体験することとまったく同じなんだよ。そして、最初の話題に戻れば、いちばん刺激的な人生のディテールというものを、自由に生きることができるようになるんだ……」

 シンが、あの晩語った言葉が思い出された。彼は、ほんとうに人間の脳をコントロールするゲームにたどり着いていたのだろうか。

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