チキサニ ―巨きなものの夢― Chapter.14

14

 三輪さんとぼくは、再びオートバイのエンジンをかけ、アクセルを開けた。

 丈の低い笹に覆われた斜面をつづら折れに降りる道は、明るく見通しがきいた。

 ぼくたちは、眼前に広がっていく谷間の景色に見とれたまま進んでいった。谷に降り、集落へ向かって進んでいると、この風景と深く繋がっているという感覚がますます強くなっていく。

 谷を貫流する沢の澄んだ流れに乗って渡ってくる風は、体の芯まで染みわたり、あらゆる穢れを浄化してくれるような気がする。そして、陽に輝く緑に精神が覚醒される。ぼくは、この村に来たことに、そして、三輪さんに出会ったことに運命のようなものを感じた。

 こうした出会いを必然とは思わないし、今まで辿ってきた人生の様々な局面でも、それを逃れられない運命だと思ったことは一度もなかった。だけど……。

 集落に近づくと、オートバイの音に驚いて、集落の入り口にあたる家の庭につながれていた犬が激しく吠えたてた。その声に顔を出す者があるかと思ったが、誰も姿を見せなかった。

 粗末な板張りの壁に、草葺き屋根の家が並ぶ集落には、まるで人の気配が感じられなかった。だが、どの家も整然としていて、ここで生活が営まれていることはわかる。

 集落の中央には、あのハルニレの巨木があった。峠から見下ろしたときにも、数件の家をその傘の下に隠すハルニレは巨大に見えたが、すぐそばまで来ると、その威容に、畏れを感じるほどだった。

 三輪さんは、ハルニレの下を通り過ぎ、小川に沿った集落のいちばん上流に位置する家の横まで来てオートバイを止めた。エンジンを切ると、小川の涼しげなせせらぎが響く。

 三輪さんは、背負っていた荷物をオートバイの横に置き、ヘルメットを脱ぐと、まっすぐ小川へ向かった。ぼくも同じように荷物とヘルメットを置いて彼に続く。

 岸辺にかがみこむと、彼は清冽な流れから両手で水を掬い取り、いきおいよく顔を洗う。そして、もう一度水を掬うと、喉を鳴らして飲んだ。

「ハァーッ、うまい!」
 目を瞑り首を振って唸る。

 ぼくも、彼を真似て水を掬い、顔を洗い、そして飲んだ。

 その水は雪解け水のように冷たく、火照った顔がぎゅっと引き締まった。そして、その凛とした味に、森の木々の葉にたまった露の一滴一滴が集まって流れができる様子が見えた。

「どうだい?」
 三輪さんは、水の味わいに感動しているぼくに、溌剌とした笑顔を向けた。大間のフェリー待合所で初めて会ったときと同じあの屈託のない笑顔に戻っていた。

「その家なんだ」
 彼は、背後に首を向け、そこにある小さな家を見ながら言った。

 そして、立ち上がると、手を振って雫を払いながら歩き出した。ぼくは、小走りで彼に追いつき、その背に声をかけた。

「村はみんな留守みたいですね」

「うん。みんな兼業農家で、朝のうちに農作業を済ませたら、町役場や製材所に働きに行くからね」
 彼は、今もここの住人であるかのような口調で言った。

 彼の家は、庭の雑草がきれいに抜き取ってあり、屋根や樋にも痛みはなく、ドアや窓もしっかりしていた。ほんとうにここが彼の家なのだろうか……。

「二十年ぶりでしたよね。ここへ戻ってきたのは」

「うん」

「お父さんは病気になられてから、ずっと病院だったんでしょ?」

「そうだよ……」

 ぼくは、彼が家を間違えているのではないかと思った。

 彼は二十年来ここを訪れていない。しかも、父親が病気になってからは、ずっと無人のはずだった。それなのに、この家には、ずっと人が住みつづけてきたような生活感がある。今は誰かに貸されていて、三輪さんは、それを知らないのではないか。

 玄関のドアの傍らまで来た。

 表札を確かめると、墨文字がかなりかすれてはいたが、はっきり三輪と読むことができた。

「あとで近所に挨拶にいかなくちゃな。こんなにきれいにしといてくれたんだから」
 彼は、そうつぶやきながら、開き戸に手をかけた。

「カギは?」

「ハハハ、このあたりじゃ、出かけるときもカギなんかかけないよ」 
 彼は、また現役の住人のように自信たっぷりに言い切った。

 何か不自然なものを感じたのは、三輪さんが引き戸に手をかけて、それが動き出した瞬間だった。

 いくら近所の人たちが掃除を欠かさずにしていたとしても、もう長い間住む人のなかった家だから扉の開け閉てはほとんどされていなかったはずだ。見た目にも、古びて、容易な力では動きそうに見えない。

 ぼくは、その引き戸を見た瞬間、自分の生家を思い出した。祖母が亡くなって、ぼく一人が暮らすようになったとき、真っ先に玄関の引き戸が抵抗を始めたのだった。

 三輪さんも、それを見越して動きが悪くなっていることを想像したように、手に力をこめた。ところが、彼の意に反して、扉はきしみもせず、氷の上を滑るように勢いよく開いた。

 三輪さんが力を入れた分、擦りガラスのはまった古びた木の引き戸は、勢いあまって、激しく柱に衝突した。はめ込まれたガラスが割れるように響き、その音に心臓が縮むように驚かされる。

 いや、驚きは、もう一段あった。

 柱に当たって跳ね返ってきた引き戸を、白い手が内側から押さえたのだ。
内部は暗く、手だけが宙に浮いているように見えた。

 血の気が引いた。

 三輪さんは、間近にその白い手を見て、ヒッと短い叫びをあげ、よろよろと後じさった。

 彼の真後ろに立っていたぼくは、危うく背後に尻餅をつきそうになり、思わず三輪さんのジャケットの裾をつかんだ。彼もバランスを崩し、ぼくたちは、折り重なったかっこうで尻餅をついた。

 内側から引き戸をつかんでいた白い手は、さらにその戸を開く。そして、中から、影がゆっくりと歩みだしてきた。

「ヒッ!」
 ぼくと三輪さんは、同時に、声にならない悲鳴を上げた。

「兄貴!」
 影が言った。

「兄貴でしょ」
 弾んだ声。

 表の日差しの元に現れたのは、小柄な若い女性だった。

「トキコ? ……トキコか!」
 三輪さんが、もがいて立ち上がりながら言う。

 くたびれたTシャツに、はきこんだGパン、長く伸ばした艶のいい髪を鉢巻で押さえている。ふと、どこかで見たインディアン娘の人形を思い出せた。

 彼女は、日焼けした顔から白い歯をこぼれ落とさんはがりの笑顔でぼくたちを見下ろした。

 ふと、彼女に懐かしさのようなものを感じた。遠い昔に別れた幼なじみに唐突に再会したような気分。顔形はすっかり変わっているのに、醸し出す雰囲気に、はっきりと一緒に遊んだ幼い頃の思い出をはっきりと感じ取れるような、そんな懐かしさ。

 三輪さんは、のっそりと起きあがると、彼女に歩み寄り、節くれだったごつい手で細い肩をつかみ、まるで骨董の鑑定人が壷の名品を品定めするような感じで、彼女の顔をしげしげと見つめた。

 彼女は、その射るような視線を笑顔で受け止めると、こくりとうなずいた。

「ほんとに、トキコか? 俺の知ってるトキコは、いつもばあちゃんの袖をつかんで離さない、こんなちっちゃな赤ん坊だったけど……」
 三輪さんは、彼女の肩から手を離すと、右手を腰の横に持っていって、下向きにかざして言った。

「それは二十年も前の話しでしょ」

「しっかし、すっかり大きくなっちゃって……」

 彼女は、丸顔の三輪さんとは対称的にほっそりした輪郭だが、目鼻立ちは三輪さんと同じようにはっきりしていた。好奇心に輝くような大きな目に、意志の強そうなしっかりした眉。感情をはっきり表す彼女の表情は、また、ぼくにデジャヴュのような感覚を呼び起こした。

 ぼくが三輪さんの背後で立ち上がると、彼は、ぼくのことを大間で知り合って意気投合したオートバイ仲間だと紹介した。

 なぜか、彼女の笑顔がまぶしくて、ぼくは、三輪さんの背後に隠れるように会釈する。

「同じオートバイだし、フェリーに乗り合わせたライダーは二人だけでね。何かの縁だと思ったからさ、ここまで無理言って一緒に来てもらったんだ」

「そう、ここで会ったのも何かの縁でしょうから、私のほうもよろしく」
 そう言うと、彼女はぼくを真っ直ぐみつめて微笑み、手を差し出した。その手を握ると、細くしなやかな指が意外なほど力強かった。そして、温かかった。彼女の瞳は薄い茶色にほんの少し緑を混ぜたような不思議な色合いをしていた。淡い色合いのその奥がとても深い。見つめていると引き込まれていきそうだ。

「こいつは俺と違って頭のできがいいから、大学院まで進んで、なんだか難しい勉強をしているんだ。文学? 文化学……じゃなくて、なんだっけ」

「文化人類学よ。アイヌをはじめとする北方民族の研究をしているの」

 彼女は、この夏ずっと網走のほうで発掘調査をしていて、久しぶりに実家に戻ったところだと言った。それで真っ黒に日焼けしていたのだ。

 彼女が戻ったとき、家はかなり荒れていた。彼女はフィールドワークで鍛えた体力と技術を生かして、建てつけの悪くなった戸を直し、屋根に登って草を取り、庭を手入れしたのだ。

「さっ、兄貴、二十年ぶりの我が家に入って」
 登季子に促されて、三輪さんとぼくは家に入った。

 かまちを跨いで土間に入ると、外の暑さを忘れさせるひんやりした空気に包まれた。

 北国の住まいらしく、窓は小さく、室内は薄暗い。入ってすぐは、隅に竈がしつらえられた6畳ほどの三和戸だった。一段高くなった奥の板張りの部屋には、中央に囲炉裏が切られている。

「そっちへどうぞ」
 登季子は、自分は竈のほうに向かうと、三輪さんとぼくには、囲炉裏の部屋のほうへ上がるように促した。三輪さんとぼくは、上がりかまちに腰掛けて、ブーツを脱いだ。

 そして囲炉裏のある部屋に入る。

「ああ、懐かしいな。この匂い」
 三輪さんは、そう言うと、深々と息を吸った。

 部屋は、かすかな草いきれのような青い香りがした。茅葺きの屋根の匂いだろうか。見上げると、天井は囲炉裏の煙で燻されて黒光りしている。梁はむき出しで、皮を剥いただけの太い自然木が使われていた。これも黒光りして年月を感じさせた。小さいながらしっかりした造りの家だった。

 部屋の奥には、小さな卓袱台の上に神棚のようなものがしつらえられている。白木を鉋がけするように削り、そのけずり花を枝に残したままの神主が持つ御幣のようなものに挟まれて、小さな額に収められた写真が三つ置かれている。その前には、お茶とご飯が供えられている。面やつれした老人を真ん中に、右はアイヌの民族衣装を着てにこやかに笑う……口の周りと目尻に不気味な入れ墨を施した老婆。そして、その左に登季子に面影がそっくりの中年にさしかかったくらいの女性の写真があった。

 三輪さんは、三人の遺影の前でひざまずくと、頭を垂れ、手を合わせた。
これまでの長い月日をかみしめるように、彼は長いこと鳴咽をかみころしながら祈った。

 そして、顔をあげると、真ん中の老人の写真を手に取り、呟いた。
「こんなに痩せちまったのか、親父……」

「それはまだ元気な頃。最後はもう骨と皮だけだった。点滴の針も打てないほどね……」

 お茶をのせた盆を手に持った登季子が、ぼくの横に正座しながら、静かに言った。

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