チキサニ ―巨きなものの夢― Chapter.5

 シンの人生に真澄が登場するまでの彼の日記は、内省のような内容ばかりだった。そのトーンも淡々としていて、いつも何かしら考えるテーマを持っていて、それを考え続けている彼らしいと思えた。

 彼は、あまり人と交わらず、仕事でも、ただ黙々と自分のオフィスに籠もってモニターと向き合っていることが多かった。ミーティングでも余計なことは話さず、人の話をメモを取りながら聞いていて、肝心なところで誰も考えが及ばないブレークスルーのアイデアを言葉少なに語り、最小限の指示を出して、すぐにオフィスに帰っていく。プライベートなことも、ぼく以外のスタッフにはほとんど話さなかった。ぼくに話す内容にしても、余計なことは何も言わなかった。

 彼の生きる姿勢は、毅然として、一人であることに満足して、それを楽しんでいるようだった。シンには「孤高」という言葉がまさにぴったりだった。

 ところが、真澄の名が登場すると、そんな日記のトーンもカラーもがらりと変わった。

199*.3.4~21
 それは、シンと真澄の新婚旅行の記録だった。
 ぎこちないオールさばきの新妻、メキシコの田舎町の街角で、はみ出すほど具の入ったタコスをかじる彼女、本場のディズニーランドのスナップ……。
 シンが一人旅で撮っていた他の映像とは、画面全体の明るさが違っていた。一人旅の映像は無機質で、彼の感動はたしかに伝わってくるが、それは、どこかストイックな硬さを漂わせていた。ところが、この映像では、風景まで透明で軽やかに踊っている。

 彼が究極の3Dゲームといわれた格闘技ゲームを作りだしたのは、この新婚旅行から帰ってしばらくした頃だった。

 それまでの彼のゲームは、どちらかといえばレースのようにメカニカルなものが主体で、無機質でソリッドな雰囲気が漂っていた。ところが、この格闘技ゲームでは、硬さが取れ、逆に、人間の肌触りや暖かみが、全面にあふれていた。彼は、キャラクターの表情にも徹底的にこだわり、俳優に演じさせたキャラクターの表情をキャプチャリングし、それをデフォルメすることでゲームの世界観にマッチングさせた。

199*.5.1
『奇しくも母の誕生日に長女誕生。
 お腹の中で10カ月もかけて成長してきたのだから、誕生もたいへんなのかと思ったが、陣痛も軽く、たいして苦しまずに出産。真澄もあっけらかんとしている。
 4200g、白くて、大きくて、よく動く元気な子。ベビールームに並ぶ他の子と比べると、二回りは大きく見える。そして、誰よりも美人だ。
 優雅に美しくなるようにと雅美と命名。わが身を考えたら高望みしすぎのようだが、やっぱり親としては女の子にはそんなふうに育ってほしい。
 母も真澄の両親もともに初めての孫ということもあって、朝一番にかけつけ、対面。母は自分と同じ誕生日とあって、ことのほか喜んでいる。これを機に東京で一緒に暮らさないかと打診するが、この子の御守をさせるつもりだろうといなされてしまう。
 僕もついに親父。死んだ父さんも、きっと喜んでくれているだろう……』

 分娩室の『使用中』の赤いランプ、保育室の中の生まれたばかりの赤ん坊のアップ、ガラスで隔てられてた廊下から折り重なるようにして覗くおじいちゃんおばあちゃん、やつれてはいるが満足しきった顔で眠る真澄、赤ちゃんに乳を含ませる彼女、その口元のアップ、空になった哺乳瓶、赤ちゃんの寝顔、笑い顔、泣き顔、自分の手と赤ちゃんの手を並べたスナップ、看護婦さんから赤ちゃんを手渡されて泣きべそをかいたような顔のシン、赤ん坊と並ばされてしかたなくピースサインをしている医者、そしてなぜか産院の名の入ったスリッパ……産院内で目についたものを片っ端から映像に収めたようだ。

 この後の日記は子供一色だ。

199*.5.1
『雅美1歳。おばあちゃんも一緒に誕生日を祝う。こちらは63歳。真澄の実家のほうからも、誕生祝いが届く。夏物の服が4種類も。
 すっかりやんち藪りが板についてきたわが小皇帝様は、たくさんのプレゼントや御馳走にすっかり興奮して、10時すぎまで、手足をばたつかせて喜んでいた。
 なにかスポーツでも仕込んだらいい選手になりそうだ。すっかりゴルフづいているおばあちゃんは、プロゴルファーにしようと、かなり本気で目論んでいるようだ。マーちゃんのパワーなら、きっと世界で通用するゴルファーになるよだって。それも悪くないかもしれない。
 だがこの子が大きくなったとき、世界はどんなふうになっているのだろうか? 自分が最先端の分野にいながら、ときどき先がまったく見えなくなることがある。今度のプロジェクトこそは、彼女たちの世代に未来を拓く上でも重要なものになるはずだ……そのためにも、僕ががんばらねば』

 ここまで、ずっと、子煩悩なパパの絵日記が続いていた。しかし、この記述の後は、テキストだけの単純な業務日誌に変わった。

 ちょうどその頃、シンが大きなプロジェクトに没頭しはじめたのだった。

 プログラムやアルゴリズムなどの数式が並び、ところどころに走り書きや乱雑なメモが混じっていた。専門外のぼくには、それらの意味がわからず、膨大なファイルを辿っていくのが苦痛になった。

 彼の日記を追っていっても、彼の「失踪」の手がかりに繋がる可能性は低いようにも思われた。だが、他にはまったく見当がつかなかった。


5-2

 ぼくが見てもさっぱりわからない数式やメモが、このまま永遠に続くのだろうかと、さすがに投げ出したくなったとき、ふいに、日記のトーンが変わった。この日記の最初の頃のように、淡々とした記述に戻った。

199*.7.3
『新ゲーム開発の立ち上げ。大まかなプランはおぼろに見えているのだが、まだ、どうすればいいかうまく考えがまとまらない。
 ある意味で、これは人間の認識という問題に肉薄することになってしまうのだ』

199*.8.21
『万人に受け入れられやすいのは、やはり神話だろう。
 しかし、神話が人間の感情、とくにアルカイックで根源的な感情や理性にどう訴えていくのか、その構造を分析してみる必要がありそうだ』

199*.10.3
『サイケデリックなイメージを使って、感覚刺激の実験を行う。
 はじめは、家庭のこととか、このゲームに関する様々な事柄が脈絡なくよぎる。しかし、だんだん漠然としたイメージ、なにか光の向こうに大きな存在があるような、あるいは深い海の底に沈んでいくような深い恍惚感があらわれはじめる。
 それを過ぎると、様々な神話のイメージが浮かび上がってくる。
 やはり、神話は人間の根源的な意識に訴えかけるなにかを持っているのだ』

199*.11.12
『なるべく外部環境から遮断して感覚刺激を行うほうが、脳へのフィードバック効果がある。理想はアイソレーションタンクを使うことだろうが、装置を密閉型にしてヘッドマウンテッドディスプレイを使えば、それに近い効果を上げることができるだろう』

199*.12.13
『……………ハードのほうの見通しはついた。後はいよいよソフトのほうだ』

 ここまでで、このディスクはいっぱいになっていた。

 ぼくは、さらにラベルの日付が続きになっているディスクをPCのスロットに差し込み、ファイルを開いた。

 前のディスクから年があらたまり、さらに3カ月あまりの空白があった。ここまでも、ときどき数カ月の空白があったが、たぶん仕事が佳境に入って、この記録すらつける余裕がなかったためだろう。

 199*.12.13
 それは、夢に関する記述からはじまっていた。
『コンピュータとのニューラルネットの実験に入ってから、不思議な夢ばかり見る。
 いつも決まって、顔のはっきりしない女性が出てくる。
 明るい靄の向こうに、髪の長い若い女性がいて、何か必死で僕に訴えている。彼女が誰なのか、そして何を訴えているのか、じつは僕にはよくわかっているはずなのだ。
 ところが、それが何なのか、今一歩のところで思い出せない。その光景に、ひどく懐かしいものを感じるのは何故なのだ? 歯がゆさに身悶えしているうちに目が醒めてしまう』

199*.3.20
『彼女とはすごく親しかったのだ。
 何故かそんな確信が湧いた。
 彼女の名前は……』

199*.3.21
『今日はやけにはっきりした夢を見た。
 海岸……。
 黒い、寒々しい海。台風が過ぎた直後のように、暗灰色の荒い粒の砂浜に、たくさんの海藻や腐った木片が打ち上げられている。
 男たちが、たっぷり水を含んだ芥に難渋しながら小舟を海へ押しだそうとしている。
 舟の上には三人の男。舳先と艫の二人は泥と血にまみれた鎧をつけ、やつれ果てている。 落ち武者? その二人に挟まれて若者がいる。彼もやつれてはいたが、落ち着いて、何か瞑想にふけっているようだ。
 三人が乗った舟をようやく海面に押し出すと、男たちは、その場にひざまずき、芥の汁にまみれながら叩頭した。
 刺し子のような厚手の着物の袖で涙をぬぐう者もいる。
 舟の三人は、彼らに向かって、深く一礼すると、黒い鏡のように静まり返った海を、遥か彼方にかすむ陸影を目指してまっすぐに漕ぎ出していった。
 カプセルでの実験をはじめてからの夢はどんどんリアルになってくる。
 夢から覚めてからしばらくの間は、まだ現実に戻ってきたのが信じられないほどリアルだ。色彩はもちろん、匂い、風まで感じることができる。……脳が活性化されるからかもしれない』

 理系の理論派である彼の書くものにしては、かなり叙情的な描写だ。彼は、会話でも、話しを誇張したり、デフォルメして面白く脚色したりしない。簡単明瞭で、結論から先に言うのが彼のスタイルなのだが。
 このころ、彼の心の中で、何かが変わった。ぼくには、そう思えた。

199*.3.22
『みはるかす草原の真ん中に、緋色の鞍をつけた馬が一頭、ポツンとたたずんで、たてがみを風になびかせながら草を食んでいる。
 どこからともなく、革の鎧を纏った男が現れる。その男の姿を認めると、馬は弾かれるように緊張し、毅然と四肢を伸ばして、男と相対した。目が男の合図を待ち受ける。
 男は、手綱をとると風のように鞍に飛び乗った。
 あの嵐の後の砂浜で、舟に乗っていた若武者だ。 体躯は一回りも二回りも逞しくなり、赤胴色に焼けた顔には、立派な髭がたくわえられていた。しかし、間違いなく、あの疲れはてた武者に前後を守られて船出していった若者だ。彼方にある目標をしっかり見定めるような、瞳の輝き、それはまさしくあの青年のものだ。
 彼は、あのときと同じ表情で、一点の雲もない青空を見すえると、自信に満ちた微かな笑みを浮かべて、背に負った長弓を外し、それに鏑矢をつがえて、天高く放った。
 猛禽の鳴き声のような長く尾を引く音が青空を切り裂く。
 それを合図に、彼の鞍と同じ緋色の革鎧に身を固めた無数の騎馬兵が丘陵の影から湧き出してきた。
 彼を行列の先頭に、無数の騎馬が草原に居並ぶ。
 彼は、自分の背後の騎馬軍団を確認すると、ゆっくりとした動作で、長弓に二番矢をつがえ、弓が折れそうになるまで引き絞ると、一気に放った。
 それを合図に、騎馬軍団が風より速く緑野を疾走した。
 草原は、たちまち鮮やかな緋色の絨毯で覆われていく。
 いつのまにか、場所が変わっていた。
 僕は、深い霧に覆われた森の中の小広い空き地に立っている。
 すると、霧のベールの向こうに妖精のような彼女が現れ、囁いたのだ。
「義経はアイヌの神様なのよ」……』

 どういうことだ? シンは、いったい、何を見ていたのだ?
 この後、また、一ヶ月あまりのブランクがあった。

199*.4.21
『手応えはあるのだが、何か肝心なことが抜け落ちている。そんな思いにずっととりつかれている。ひどく簡単なことなのだとわかっているのに、それが出てこない。
 いったい何だ。どうして、人によって極端レスポンスにバラつきがあるんだ? 最大限の効果を狙うように刺激を与えているはずなのに、いつも決まってつまらない予定調和で終わってしまうプレイヤーがいる。
 自分にとっても、いい線までいくのだが、まだ物語に没入するところまで行けない。
 何か、何か一つ足りないのだ。それさえみつかれば、コンピュータと完全に一体となって、物語の中で生きることができるはずなのだ』

 この記述の後には、複雑なプログラムやアルゴリズムの走り書きが続いていた。

199*.4.26
『スペクタクルファイターのTVゲーム判の完成披露パーティの後、久しぶりにOと飲む。
 もの書きだった彼には、子供だましのゲームのシナリオは、単純すぎて、面白くないようだが、新しいプロジェクトの話しをすると、かなり興味を示した。
 いずれ、こういう時が来ることを見越して彼を誘っておいたのだ。
 彼も、こういった形のシナリオなら、やりがいを感じてくれるだろう。
……だが、肝心なのは、もう一つのファクターだ。それががわからなければ、Oの才能を生かすこともできない』

 人の日記に自分が登場する場面は奇妙なものだ。シンが、先々を見越してぼくを会社に誘ったというのは意外だったが、単に、ぼくの境遇に同情して拾い上げてくれたのではないことがわかると、逆に肩の荷がおりたような気もした。反面、ぼくをこのように評価してくれていた彼に対して、十分な恩返しができない自分が情けなく思えてくる。

199*.5.7
『反射、シナプス反射、単発の反射を捉えることばかり考えていた。
 分布に注目すべきだったんだ。入力に対する反射だけでなく、その分布的な広がりとそのレスポンスとスピード。
 GAの交差パラメーターにそれを組み込めば、活性を落とさずにフィードバックループを維持できるはずだ。』
 記述の後に、込み入ったアルゴリズムが並んでいた。

 シンと最後にバーで話をしたとき、彼は、プレイヤーによって脳の活性が落ちて、ゲームが萎むように終わってしまうことに悩んでいた。その答えを見つけたということか。

 ぼくは、シナリオ担当で、プログラムには疎かったが、それでもプログラマーたちと仕事をして数年経ち、基本的なアルゴリズムの仕組みは理解している。朧ではあるが理解できた。

 シンは、はじめは脳の神経回路をコンピュータの集積回路と同様にとらえていた。そして、擬似的に脳の神経回路を含めたニューラルネットワークを構成した。しかし、それでは反射のばらつきを制御できなかった。

 たぶん、ひっきりなしにフィードバック刺激を受けているうちに、神経回路は疲れて、活性=パフォーマンスが落ちていったのだろう。

 シンは、神経回路をコンピュータの集積回路として捉えるだけでなく、脳の各部分をそれぞれが独立したコンピュータとして考え、それが並列で繋げられている処理システムに見立てたのだろう。

 そして、その並列処理システム全体の活性=パフォーマンスをモニターして、彼が独自に開発したGA=遺伝的アルゴリズムと結びつけてフィードバックシステムを形作ることで、彼が言っていた脳とコンピュータを一体化させたニューラルネットワークゲームを作ったのだ。

199*.5.10
『ついに完成! 今日は仕事のことは忘れてお祝いだ。
 このプロジェクトに取り組みはじめてから、はじめて落ち着いてみんなと過ごせる。
 真澄も雅美も今日のお祝いの意味は、よくわからないようだが、僕の忙しさも峠を越えて、前のようにみんなで一緒に過ごせる時間が増えることを感じて喜んでいる。真澄、雅美、長い間、ごめんよ』
 誕生祝いのような大きなケーキを前に、家族三人が並んだ映像が添えられていた。

199*.5.12
『明日はいよいよ、装置に完成したNo.4プログラムを掛ける。今から、期待で心臓が飛び出しそうだ。なんといっても、明日は、僕が僕自身の創造主になる記念すべき日なのだ』

 この続きはなかった。

 この最後の日付の翌日、シンは装置の中で、No.4プログラムを起動させた。そして、あの停電が起きたのだ。

 自分自身の創造主になるとは、いったいどういうことだ?
 シンは、自分の身に起こることを予見していたのか?

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