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聖地学講座 vol.241「根源神を求めて」

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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」                vol.241
2022年7月7日号
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◆今回の内容
○根源神を求めて
 ・諏訪に息づくもの
 ・翁と宿神、後戸の神
 ・価値=クオリティの源泉
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根源神を求めて
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 今回から、この聖地学講座は11年目に入りました。この10年、そもそものレイラインの取り組みから数えれば30年以上、いったい自分は何のためにフィールドワークや考察を続けてきたのだろうと振り返ってみると、それは、"根源神"を求めてきたということではないかと思えます。

 "根源神"といってしまうと、何か宗教的なものに限定されたイメージになりそうなので、"根源的な何か"と言ったほうがいいのかもしれません。しかし、それでは逆にイメージが散漫になってしまうので、迷った挙げ句、今回のタイトルは"根源神"としました。

 このように書くと言葉遊びのようですが、そうではなく、私が求めてきたもの自体が何かに例えることが困難な性質のものであるということです。何事でも、それを成す根源を求めていくと、そこに突き当たってしまうというのは宿命なのかもしれませんが。

 この9月、一泊二日で八ヶ岳周辺の縄文遺跡と諏訪を巡るツアーを開催する予定ですが、この土地では、まさに根源神といえる「ミシャグチ」の信仰が太古から続いてきました。

 ミシャグチは、ミサグチ、サグチ、シャクジン、ショウグン等々、たくさんの別な呼び名があります。また、表記も、「石神」や「宿神」、「御左口」「御社宮神」「御射宮司」「御社宮神」「御射宮司」「赤口神」「参宮神」「社子神」「将軍」「大将軍」と様々で、その信仰は全国に及んでいたと考えられながら、それが具体的に何を意味するものなのか、いまだに大きな謎になっています。

 柳田國男は『石神問答』の中で、ミシャグチ信仰は縄文の昔にルーツを持つ石神の信仰だと推論した上で、さらに対話や考察を続けていく中で、それは石神という枠を超えて遥かに広がっていく概念であることに気づきました。

 また、折口信夫は、『翁の発生』の中で、能における「翁」はこの世ならぬところからやってくる「まれびと」を表したものであり、まれびとはこの世ならぬところとこの世とを媒介する躍動的な力を体現したものであると指摘しました。これは、ミシャグチの性質に極めて近いイメージのように思います。

 レイラインという概念では、大地に秘められた得体の知れない力を古代の人間たちが意識して、それに基づいた聖地を配置したと考えます。その大地の力は「ゲニウス・ロキ」と呼ばれます。

 ゲニウス・ロキは、元々古代ローマ人たちが使った言葉で、日本語では「地霊」と呼んだりもしますが、この言葉にしても、漠然とした意味しか伝えていませんし、土地に関わらない、もっと広がりをもった概念まで包含するものではありません。その意味では、ゲニウス・ロキはミシャグチのうちの大地と関わる性質に限定されたものといっていいのかもしれません。

 そもそも、私が、この講座を「聖地学」というタイトルにしたのは、レイラインという概念を入り口として、ミシャグチのような得体のしれない、しかし、信仰の原点ともいえる「古層にあるもの=根源神」を明らかにしたいという思いからでした。

 この講座が11年目に入る今回、これまでの10年間の考察をベースとして、あらたな10年をより明確な視点から見渡すべく、"根源神"に触れてみたいと思います。


●諏訪に息づくもの●

 今年は、7年に一度行われる諏訪大社の御柱祭の年でした。勇壮な木落しで知られるこの祭りは、諏訪とその近在の人にとっては諏訪の神とともに、土地が新たな息吹を放ち、自分たちの生命も生まれ変わったように活性化される年として待ち望まれています。

 御柱の年には、入れ替えられた古い御柱からお守りが切り出され、それが氏子に配られます。少数が一般にも頒布されるのですが、いつの頃からか、私も御柱の年にはこのお守りをいただいて、聖地取材の旅で、これを首からぶら下げるのが常となりました。

 大地に屹立して、7年間、依代として天と地をつなぐ役目を担っていた御柱の一部を身につけていると、何か根源的なものと通じているようなほのかな感覚が持てるのです。

 ところで、諏訪大社は、上社本宮、上社前宮、下社春宮、下社秋宮の四社が諏訪湖の両岸に建つ形となっていますが、このうちの上社前宮が諏訪信仰の始まりであったとされます。この前宮では、御頭祭という祭りが行われます。これは、75頭の鹿の頭(現在では剥製が使いまわしされますが、かつてはその年に狩られた鹿の頭が供えられていました)をはじめとして、生剥ぎされたウサギやカエルなどを供える「贄の祭り」です。この祭りは、諏訪の神が、古い狩猟神であることを明確に物語っています。

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