チキサニ ―巨きなものの夢― Chapter.6

 たった一人の肉親だった祖母が亡くなると、とたんに庭が荒れはじめた。

 僧坊の庭園のように、端整に刈り込まれた植え込みと、ゴミ一つなく箒の筋目がつけられていた庭。あの庭は、祖母の死からひと月とたたないうちに、中央にあったバラとスモモの間にアワダチ草が割り込み、柿と梅の老木の間の細道は雑草に埋め尽くされてしまった。

 そして、さらに数ヶ月のうちに、庭の周囲を縁取っていた皐月の鉢は泥に汚れ、端から茶色く枯れ始めた。瓦屋根の端に草が並んで生え、雨が降ると、詰まった樋から泥水が溢れ出した。

 戦後すぐ土木技術者だった祖父が建てた家は小さいながらもしっかりした造りで、雨漏りもなく、その屋根の下に家族の生活を守ってくれていた。

 それが、うち捨てられた山寺のようになるまでに、半年もかからなかった。

 懐かしい家が荒廃していくのを目の当たりにしながら何もできない自分に、ぼくは無情を感じた。

 ぼくは、ただ指をくわえて、自然の侵食を眺めていたわけではない。屋根に登って樋を掃除し、雑草をこまめに刈って、建てつけが悪くなった扉にカンナをかけて修理した。

 それでも、家の荒廃を食い止めることはできなかった。

 床の間の床板を突き破って篠竹が生えてきたとき、ぼくはすべてを失ってしまったことを悟った。ぼくの家族のあらゆる思い出が詰まっていたこの家の魂は、祖母とともに行ってしまったのだ。

 ぼくは、学校の図書館で、なにげなく開いた本に書かれていたことを思い出した。

 それはアイヌの風習について書かれた本だった。それには、主を亡くした家は、その主とともにあの世に送られる。アイヌたちは、それを「家送り」と言うとあった。

 ぼくは、家送りをした。

…………


 シンのディスクを返しにきて、しばらく真澄と雑談した後、ふと、庭に目をやると、芝の伸びかたが急に勢いづいたような気がした。それで、そんな昔のことを思い出したのだ。

 ぼくは、エンジン付きの芝刈機を借りて端から芝を刈った。

 慣れない機械に悪戦苦闘した後、ほっとして見渡すと、刈り込んだ長さにバラつきがあって、虎刈りにされた猫の背のようになってしまった。

「なんだか前より見てくれが悪くなっちゃったな」

 デッキに腰を降ろし、真澄から差し出されたアイスティを飲むと、どっと汗があふれた。

「そんなことないわ、きれいになったわよ。明るくて気持ちいい」
 そう言って、彼女は深呼吸した。

 ぼくもつられて大きく息を吸う。

 青くて爽やかな初夏の香りが庭中にたちこめていた。

 それは、子供の頃の夏の草刈りを思いださせた。祖母の家の近くにあった町営アパートの前の空き地が、夏休み中の子供たちの朝のラジオ体操の会場になっていて、毎年、夏休み初日の朝に子供たち総出でその草刈りをするのが恒例だった。

 朝露に濡れてひんやりした細長い葉をだばねて握り、その根元を鎌で断ち切ると、切り口から、夏の香りが立ち上った。子供たちは、夏休みのはじまりを告げるその香りに、心を浮き立たせたものだった。

 それは、今、この庭を覆っている香りそのものだった。

 雅美が、おぼつかない足取りで庭を歩き回りながら、芝の切れ端を集め、うっとりした表情でその匂いを嗅いでいた。

 それを見ているうちに、苦い記憶がよみがえりかけた。

『もしかしたら、ぼくにも、こんな家庭が築けていただろうか……』

「ねえ、あなたは家庭を持とうとは思わないの」
 唐突に、真澄が言う。

 その言葉が、心の深いところに食い込んだ。

 ぼくは、あわてて言い訳するように答える。
「俺のガラじゃないよ。夫とかパパなんて」

「そうかなあ……、子供は好きでしょ」
 彼女はぼくの顔をのぞきこんで、探るように言う。

「ああ、好きだよ」
 ぼくは視線を合わせないようにして答える。心の動きを真澄に見透かされたような気がして、動揺していた。

「欲しいとは思わないの?」

「思わないな」

「どうして?」

「なんだか、家庭なんて面倒くさくってね」

「そう……? じつは、前から不思議だったんだ。慎みたいな人は、仕事一途で、女性に縁がないってこともあるけど、あなたはそういうタイプじゃないし」

「この世に、俺ほど仕事一途の堅物はいないぜ」
 はぐらかそうとすると、彼女は、訝しげな表情でこちらを見つめる。

 一緒に机を並べて仕事していたころにも、こんな話題になりかけたことが幾度かあった。そんなときも、ぼくは、こんなふうにはぐらかしたのだった。

 真澄は、ぼくが、いつものようにはぐらかすのを許さないといった意思のこもった目で見つめる。

「……そういえば、3年間もずっとすぐ隣で仕事してたのに、私、あなたのこと何も知らないわね」
 ぼくは、とっさに視線を外して、明るい庭の先のほうを眺めた。

 視界に、ハルニレの木陰で何かを見つけてかがみこむ雅美が入った。

 彼女は、何かを指先につまんで立ち上がった。そして、こちらを向き、嬌声を上げた。

「ママぁ! マーちゃんねぇ、いいものみつけちゃったぁ!」
 珍しい昆虫でもみつけたのだろうか。

「子どもって、ほんとは何でも知っているんだよな。季節の匂いとか、鳥や動物の、それに草花の言葉とか……、大人になるにしたがって、人の心を忘れて、愚かになっていくのかもな」

「そんなふうにとぼけちゃうのよね、いつも」
 真澄はあきれたようにつぶやいた。

 そして、テラスに脱いであったサンダルをつっかけ、娘のほうへ駆け寄っていった。ぼくも真弓の後に続く。

「マーちゃん、何をみつけたの? ママに見せて」

「これ」
 雅美は母親の掌に、つまんでいたものをボトリと落とす。

 それは、プラチナの結婚指輪だった。

 真澄は、それをつまみ上げてじっとみつめた。次いで、真剣な表情で娘の両肩を掴んで、その子の顔を見つめた。

「ママ、痛いよ!」

 とっさに手を緩める。
「ごめん。……マーちゃん、どこでみつけたの」
 真澄の強い口調に、その子は戸惑った顔をしたが、すぐに無邪気な笑顔を取り戻し、ハルニレの木立の中を指差した。

「あのね、あそこから、ポーンて降ってきたの」

 真澄とぼくは、同時に木を見上げた。

 初夏の日差しに、眩しく青葉が輝いている。

 そのとき、見上げる先で、今年はじめてのセミが鳴き出した。

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