チキサニ ―巨きなものの夢― Chapter.1

(血の味?)
 とっさに舌で口の中を探った。

(いや、血ではない)
 強い金属質の臭いが、舌を刺しているのだ。この金属臭はどこから……目の前のワークステーションのディスプレイが、その出所だと気づく。

 電源を落とさなければと思う前に手が動いた。しかし、遅かった。

 ディスプレイに映し出されていた緻密な3D空間が、画面の中心に向かって、ブラックホールに吸い込まれるように収斂し、それに続いてスクリーンの後ろで氷がはぜるような鋭い音がして、ブラックアウトした。

「火事だ!!」
 フロアの隅のほうで、誰かが叫ぶ。

 慌てて振り向いた拍子に椅子から転げ落ちそうになり、なんとかデスクの端に縋りついてこらえる。態勢を立て直して立ち上がったとたん、分厚いアクリルパネルで仕切られた隣のサーバルームが白煙に包まれるのが見えた。

 フロアに配置された夥しい数のワークステーションからも白煙が上がったり、バチッというスパーク音とともに、画面が次々に落ちいてく。

 プログラマーもデザイナーも、いったい何が起こったのか理解できないまま、呆然とブラックアウトした画面を見つめたり、慌てて電源コードを引き抜いている。中には、白煙に包まれたサーバルームに向かって走るものもいる。

 この部署では、もっとも機密性の高い最新のゲームデータを扱っているから、サーバはすべてスタンドアローンで外部とは接続されていない。バックアップのためのミラーリングはされているが、それも同じルームの中にある。

 サーバが全て破壊されるということは、今まで蓄積してきた途方もなく膨大なデータが全て消えてしまういうことだ。

 世界の終わり……この現場にいる者にとっては、まさにその瞬間のように思われた。

 リリースを目前にして、最後のデバッグ作業を行なっていたシミュレーションRPGのプログラムすべてが、何ヵ月も呻吟した挙げ句にようやく完成したAI認識パターンのアルゴリズムが、完成間近のアンデスの地下迷宮3D空間が……すべて消えてなくなってしまったのだ。

 この会社のように、多くのコンピュータを稼働させる施設では、電磁パルスバリアが配電盤や端末ケーブルのいたるところにセットされている。MPUやデータは電磁波に極端に弱いため、異常なパルスが流れ込んで破壊されるのを防ぐためだ。

 異常なパルスが検出されれば、即座にフェイルセイフが働き、外部電源をシャットアウトして外から隔離された内部電源システムに切りかえられる。端末が吹っ飛ぶような過大な電流が配電盤やバリアを乗り越えて流れることは原理的にありえない。

 そのありえないはずのことが、目の前で起こったのだ。

 苦労して築きあげた仕事が泡と消えたことにも増して、盤石と思われていたバリアが意味をなさなかったことの衝撃は大きかった。

 後に、この事態は、このビルを中心に、半径1kmの同心円上の地域に及んでいたことが判明した。その圏内にあった施設では、コンピュータをはじめとして、そのとき通電していた電気製品はもちろん、電源が切られていたものもすべてその回路は焼き切れてしまった。

 都心のこの界隈には、大手都市銀行の本店や、鉄道、航空の本社、大手新聞社、それに中央官庁などが集中している。その業務がいっせいに麻痺したため、日本中が大混乱に陥った。

 まだ東西冷戦が深刻だった時代、太平洋上の水爆実験によって、500km以上も離れた島の町で大停電がおこったことがあった。巨大な空電が、赤道付近の空にオーロラを出現させ、広大な地域の電磁波をかき乱し、信号や電球、テレビなどの家電製品、それから車の電装部品の回路に荷電粒子が流れ込んで、回路を焼き切ってしまったのだ。

 まさに、そのように、このビルを爆心とする見えない核爆発でもあったかのように被害は広がっていた。

 そして、ある意味、この不可解な事態よりももっと不可解な事件が同時に起こっていた。

 事故の瞬間、彼は、ぼくのフロアの一階下のラボで、開発中のシミュレーションカプセルにおさまり、それを始動させていた。

 その卵型のカプセルは、大電力を使う装置だったため、見守っていたスタッフたちは、この異常事態に直面して大慌てでハッチを開いた。

 しかし、あれだけ巨大な被害が及んだ事故の中心にあったというのに、このカプセルだけはまったく被害を受けていなかった。一つだけでもそのときの最高水準の処理能力を備えたMPUを200あまりも並列に繋いで処理する複雑で大電力を消費するこの装置は、もっとも被害が深刻であっても不思議ではなったはずなのに……。

 そして、何よりもスタッフを驚愕させたのは、その密室空間の中にいたはずの彼が、忽然と消えていたことだった。

 後に、この停電は高度情報化社会の最大のウィークポイントをさらけだした事故として、長く記憶されることになる。しかし、その片隅で起こった彼の消失については、ついに触れられることはなかった。

 それは誰にも説明がつかないことであり、当時も今でも、事件として処理することも不可能だった。

 社内では初めのうちこそ様々な噂が渦巻いていたが、いつしかそれもトーンダウンし、カプセルの話しは、暗黙のうちにタブーとなっていった。

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