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聖地学講座第276回「2023年の聖地学を振り返って」

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レイラインハンター内田一成の「聖地学講座」

                vol.276
2023年12月21日号

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◆今回の内容

○2023年の聖地学を振り返って
・涅槃寂静にあるように
・自然思想と意識
・聖性を取り戻すことができるのか

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2023年の聖地学を振り返って

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 2023年も残すところあとわずかとなりました。今年は、個人的には年明け早々にChatGPTを使いはじめ、さらに続々と登場する生成AIに感動して、それらをいろいろ試しているうちに、そのイノベーションの渦に飲み込まれて、あっという間に一年が過ぎた気がします。

 この講座でも、AIと聖性、意識との関係について取り上げましたが、この地球上に人類に匹敵する…あるいは超える…超知性体(AGI = Artificial General Intelligence = 汎用人工知能)が生まれ、人類はそれとどう共存していくかを迫られるのもあとわずかという気がしています。

 私にとって身近なところでは、GPTsというOpenAIが提供している自然言語で指定してアプリを作るシステムを使って、ずっと懸案だった聖地の位置関係を簡単に割り出す「聖地メーター」が、あっという間にできてしまったのが、とても印象的でした。

 「聖地メーター」は、かれこれ10年くらい模索していて、プログラマーやデザイナーに依頼して仕様に準じたものを作るとなると数百万円から一千万円あまりのコストがかかり、完成までに数ヶ月は要するものでした。個人でその予算を捻出するのは不可能で、半ば諦めていたのです。それが、ベーシックな機能に限られるとはいえ、私個人が1時間もかからずに、無料で作れてしまったのですから。

 そのような目まぐるしい技術の進歩に圧倒された一年でしたが、一方で、月二回のこの講座の配信も地道に続け、無事に今年最後の配信を迎えることができました。この講座の執筆にあたって様々な事象とじっくり向かい合うことは、普遍と向き合うことと同じで、進歩の目まぐるしさと対称して、うまくバランスが取れていたようにも思えます。

 例年は、年末の回はルーティンに特定のテーマを掘り下げ、年明けの第一号で年頭所感を書いていましたが、年明け早々にAIにまつわる大変革が起こりそうなこともあって、年初にのんびりと一年の計を立てるような余裕もない予感なので、今回、この一年を振り返り、年明けは平常運転でいこうと思います。


●涅槃寂静にあるように

 1月5日に配信した第253回「涅槃寂静にあるように……年頭所感を兼ねて」では、冒頭で、宗教学者の山折哲雄と鎌田東二がオウム事件を振り返るというテーマで行った対談から、山折の次の発言を取り上げました。
「癒しとは一体何か。 オウム真理教信者というのは、癒しを求めている人間ばかりだったような気がする。これは決定的に受動的な人間なんですね。
 救いとか、悟りとか、自立とかということを主体的に考えない無数の人間たちをいわば最も深いところで支えているイデオロギーが<癒しイデオロギー>だと思います。癒しの受け手というのは、自ら主体的に悟るとか救われたいとかという意欲の欠如体ですね。それを日本の社会は持ち上げてきた。救いとか悟りが欠如した場合には、神も仏も存在しないわけです。
 癒しという考え方をメディアが持ち上げて、雪崩を打つように多くの人々がその世界にのめり込んでいった。だから僕は癒しというのは最もいやしい言葉だということを言ったんだけれども。つまりそれは宗教的、政治的、経済的指導者というものをきちんと点検できない群衆を生み出した基本だと思います。 いまだに癒しブームというのは続いているわけですから、その辺がしっかりしないと第二、第三の麻原がいくらでも出てくるという気がする」。

 近年のパワースポットブームや神社ブームを見ていると、この山折の発言にあるように、ひたすら他動的に「癒やし」を求めて、そんな場所に行く人ばかりで、まさにオウム前夜のような不気味な雰囲気を感じていました。そこで、年頭所感としてはネガティヴとも思えるこんな話を取り上げたのでした。

 意味を自分で考えようとせず、短絡的に「癒やし」や「救い」そして「ご利益」を求めても、振り返ってみれば何も残りません。スマホで検索すればインスタントに答えが出てくることに慣らされ、また、SNSのエコーチェンバーによって、誰かの偏った「教え」が反響増幅して、それに踊らされている人たちを多く見かけるにつけ、山折が指摘したような「オウム前夜」の危機感を募らせていました。

 長く続いたコロナ禍から開放されてあちこちに繰り出す人も多く、主要な観光地だけでなく、神社仏閣も人で溢れていました。そんな喧騒のパラノイアとでもいえるような様子にも強い違和感があって、少し冷静になって物事を見渡してみたほうがいいと感じて、「涅槃寂静にあるように」というタイトルにしたのでした。

 喧騒は、人に対する訴えかけであり、ある意味暴力的です。静寂は内向的であり、人への訴えかけがないという意味で非暴力的ともいえます。誰もが僻遠の地にある修道院で棲息しているように沈黙の掟を守る必要もありませんが、喧騒一辺倒になっていないか顧みて、時には……いや、しばしば……一人で涅槃寂静にあるように過ごしてみたほうがいいのではないか。そんな思いではじまった一年でした。


●自然思想と意識

 人間がイメージしたことが現実になるといった思想を「魔術的思考」と呼びます。そうした思想の源流をこの講座でもすでに何度か取り上げましたが、第254回「魔術的時代の先にあるもの」では、魔術的思考の原初が「自然魔術」だったことに光を当て、その自然観が、自然も人間同様<生き物>であり、様々な影響を受けてダイナミックに変転していくととらえていることに注目しました。

 中世ヨーロッパでは、占星術や錬金術が古代の自然魔術と結びついたことで、人間は自然の中に「含まれた」存在だという明確な自覚が生まれ、それが、近代から現代へと受け継がれて、ついにはガイア思想を生み出すことになりました。

 自然=地球=宇宙は一つの有機体であり人間もその構成要素であるというガイア思想は、ヒッピームーヴメントが生み出したものととらえられていますが、そのルーツは、古代の自然魔術にあって、何千年も育まれてきたものが、環境危機を契機としてとらえ直されたものです。そもそも「ガイア」という言葉は、古代ギリシアで「大地」や「地球」を意味していたものですから、その思想に回帰したものだったわけです。

 そうした自然魔術=自然観からいちばん遠ざかってしまっているのが現代であるともいえます。そのために、自然破壊がどんどん進み、様々な悲惨や社会矛盾がより深刻さを増しています。人間は自然に生かされているという感覚は、太古から誰の心にもあるはずで、今、それを思い出さなければいけないと痛切に思ったのが、こんなテーマにした動機でした。

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