「一期一会カタリバ横丁」  1人目の客人 小林治郎さん(作曲家) <音楽は挫折から生まれ、人生も挫折からはじまる>
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「一期一会カタリバ横丁」  1人目の客人 小林治郎さん(作曲家) <音楽は挫折から生まれ、人生も挫折からはじまる>

カタリバ横丁とは?

東京・恵比寿横丁を中心に現役ギター流しとして活動しているパリなかやまさん。近年は「流しという生演奏の仕事を職業保全する」ことを目的に、自らがリーダーとなり、流しの集団「平成流し組合」を結成した。1人ではじめた組合も、あっという間に50人を超え、それに伴い活動するエリアも拡大を続けている。

しかし、突如として現れた新型コロナウイルスにより、現場では流しをできない状態に……。

そんな折、組合長のパリなかやまさんと、組合メンバーである演歌歌手・流し見習いの飛鳥とも美さんの2人は「外出自粛を余儀なくされ、飲みに行けない毎日でも、みんなの居場所をつくりたい」という思いから、5月10日よりZOOMを使った「世界初!? 流しのいるオンライン横丁」を開店した。

そして今回、オンライン横丁の中の1コーナーとして新たに立ち上がったのが、ユニークなゲストを迎え、まだ世に出ていない情報をたっぷり語ってもらう「一期一会カタリバ横丁」。代官山ブックスも企画から仲間入りし、今後はその内容を編集してテキストコンテンツとしてnoteにアップしていく。

第1弾のゲストは、「平成流しの創始者」であり、作曲家の小林治郎さん。

今回の「ゲスト」

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小林治郎(こばやし じろう)
作曲家。比屋定篤子90年代ソニー三部作「のすたるじあ」「ささやかれた夢の話」「ルア・ラランジャ」の全作曲を手掛け、業界関係者から評価される。近年はボサノバ・シティポップユニット、ナミノートの「Our Songs」での作曲&プロデュースが会心の出来映えで、ここでは昭和の大作詞家「阿久悠」氏との共作も実現。メイン楽器はベースで、Martin社のアコースティックベースをメインに使用。

カタリバ横丁の「ホスト」

パリなかやま_プロフィール_HEA6429

パリなかやま
ギター流し/流し歌手。2008年、亀戸横丁で流しデビュー。2009年、恵比寿横丁流し参入。平時は恵比寿横丁にて20時~平日中心に営業。コロナ禍はオンライン流し展開中。ほか有楽町、新橋、吉祥寺、溝の口などの街とも提携。レパートリーは昭和から平成、演歌からJPOP、洋楽まで含め2000曲ほど。大抵のことは笑顔でこなすピースな流し。出張の流しでは冠婚葬祭、同窓会、送別会、あらゆる催しに対応。場所は野外、個人宅、屋形船、温泉宿、喫茶店、場所を選ばずオンデマンド。2014年書籍「流しの仕事術」を代官山ブックスより発売。平成流し組合代表。現在流し50名程活躍中。https://www.nagashi-group.com/
その他_音楽歴等
2004年 日本クラウンより「人生に乾杯を!」でメジャーデビュー(コーヒーカラー名義)

飛鳥 とも美 - 5E9401D9-6346-4C9A-993A-E6DEB42B0C61

飛鳥とも美(あすか ともみ)
演歌歌手、流し見習い。座右の銘は「死ぬこと以外はかすり傷!」。2013年6月、ビクターより「あなたに決めました」でデビュー。2014年、「日本作曲家協会音楽祭」奨励賞受賞。2015年11月には、台湾にてミニアルバム「大家好! 我是飛鳥奉美。」を発売、台湾南投縣観光親善大使としても活動開始。2017年、三重県津市を舞台とした″レ・ロマネスク”の「津の女」をカバー、2018年6月に、新曲「絆道 -きずなみち-」を発売し、現在 精力的に活動中。

カタリバ横丁、いよいよオープン!

パリ みなさん、こんばんは。今日から新コーナー「一期一会カタリバ横丁」がスタートしました。ゲストの方に、まだ世に出てない情報を中心に、さまざまなお話を聞かせていただくコーナーです。

飛鳥 みなさん、こんばんは! オンライン横丁ならではのゲストをお迎えしています。楽しみですね!

パリ それでは早速、ご紹介しましょう。記念すべきコーナー第1弾のゲストは、作曲家の小林治郎さんです。治郎さん、今日はよろしくお願いします。

小林 こんばんは、よろしくお願いします。

パリ 最初に簡単にご紹介すると、治郎さんは僕が流しをはじめるきっかけをつくってくれた人です。2008年に亀戸横丁から流しの依頼を受けた治郎さんが「一緒にやらないか?」と僕に声をかけてくれて、そこで初めて流しの仕事をはじめたという経緯があります。だから、治郎さんは「平成流しの創始者」なんです。

飛鳥 私はまだ流し見習い中ですけど、小林さんのDNAをパリさんから受け継いで、頑張らせていただいています!

小林 いえいえ、僕みたいな者のDNAをだなんて(笑)。

パリ それでは、まずは治郎さんの最近のお仕事から聞きましょうか。最近はどんなお仕事をされていますか?

小林 最近は、2011年から活動しているボサノヴァ・シティ・ユニット「naminote(ナミノート)」の活動をメインでやっていますね。僕はプロデュース、作曲、ベースやギターも担当しています。

naminote(ナミノート)
日本コロムビア所属。サウダージボイスを現在に継承するボーカリストErika、 ブラジル音楽に造詣が深い作曲に定評のある小林治郎氏が邂逅し始動したボサノヴァ・シティ・ポップ・ユニット。2013年、大滝詠一、荒井由実、大貫妙子等の良質なJ-pop楽曲のカバーを中心とした、1stアルバム「Blue Vacation」、2014年、阿久悠作詞「予期せぬ逃避行」等全曲オリジナル楽曲による2ndアルバム「Our Songs」をリリース
https://columbia.jp/artist-info/naminote/prof.html

パリ 最近はコロナ禍の影響でライブ活動などが制限されてますよね。

小林 そうだね、誰しもが制限されていると思うけど、その中でも最近、東京都主催の芸術文化活動支援事業「アートにエールを!」にナミノートも参加して、「黄昏の道」という未発表曲の音源と動画を制作しました。

飛鳥 YouTubeで聴きました! とても素敵な曲ですよね。ナミノート以外の活動はいかがですか?

小林 ウクレレ弾き語りのtamamixの2ndアルバムや、1stアルバム「Masae A La Mood」が知る人ぞ知るレア名盤の“伝説のファニーボイス”大野方栄さんにも楽曲提供しています。近年はソニー・ミュージックで一緒にやっていた比屋定篤子さんとも活動をちらほら再開させていて、2017年に開催した「1stアルバムのすたるじあ発売20周年Live」が大好評で、それ以来毎年バンド形式でのライブも行っています。

飛鳥 凄い、かなり幅広く活動されてますね。

小林 うん。過去の比屋定作品のアナログ化やベスト&レア編集CD等のリリースもあり、再評価は著しいのですが、新作のリリースはもう少し先になりそうです。他には「つながりあそび・うた研究所」の町田浩志さんの作品の編曲の仕事を毎年手掛けたりと、子どもあそびうたやダンス用音源等の制作もやってます。

90年代、ブラジル音楽だけが“進化”していると感じた

飛鳥 ここからは治郎さんの音楽経歴を聞かせてください。最初に音楽をはじめたきっかけは何だったんですか?

小林 中学生の頃に他の同級生と同じようにロックやヘビメタなど、力強い音楽に興味をもって、そこからなぜかジャズやソウルミュージック、フレンチポップみたいなオシャレな音楽が好きになり、さらにそこから追求していった先にブラジル音楽があってハマりました。20代半ばのことですね。

飛鳥 楽器も中学生の頃にはじめたんですか?

小林 そう、15歳ぐらいでギターを始めて、その頃は音楽的なことを全くわからず、ハードロック系の早弾きギターが大好きで、早弾きじゃなければ音楽じゃないと勘違いしてたんです(笑)。こんな感じで。(早弾きギターの実演)

パリ 治郎さんの早弾きは初めて見ました(笑)、長い付き合いだけど。当時のヒーロー的なギタリストは誰でしたか?

小林 イングヴェイ・マルムスティーンを筆頭に、エイドリアン・ヴァンデンバーグ、ドッケンのジョージ・リンチ、ラットのウォーレン・デ・マルティーニ、日系人のジェイクEリーとか。当時はみんな、イングウェイ派かヴァン・ヘイレン派のどちらかだったね。でも、なぜかその流れで翌年にはフュージョンに移行してジャズを聴くようになって、いつの間にかウェス・モンゴメリーやジョーパス、パット・マルティーノ等のジャズギターに傾倒して、大学ではジャズ研に入ってました。

飛鳥 なぜロックから入って、ブラジル音楽にハマったんですかね?

小林 20歳くらいからバンドをやるようになって、そのうち曲を書くようになったんだけど、日本語でオリジナル曲をつくると、それまでは英語の洋楽を聞いていた自分からすると日本語が載っているのが「ちょっと違うな、かっこ悪いな」と思うようになったんです。ブラジル音楽の言語はポルトガル語で、英語に比べると発音が日本語に近くて、日本語を載せても違和感がなくて。

飛鳥 なるほど、音の響きがね。

小林 他にも理由があって、イギリスやアメリカのポピュラー音楽は50年代から発展して、80年代終わりから90年代初めに進化の過程を終えてマンネリ化しているように感じた。でも、ブラジルのミュージシャン……、カエターノ・ヴェローゾ、ジルベルト・ジル、ガル・コスタ、イヴァン・リンス、マリーザ・モンチ、アドリアーナ・カルカニョットなど有能な人がたくさんいるけど、彼等だけは進化を続けているように感じたんだよね。

飛鳥 そうか、治郎さんはそう感じていたんですね。

小林 そう。ストーンズやボブ・ディランのように同じことを続けるのは体力や精神力がいることで、それは凄いことだけど、その一方で「音楽は進化していくべき」という考え方もあって。その点、ブラジルのミュージシャンは、自国の音楽であるサンバなどを大切にしながらも、ロックやヒップホップなど海外の音楽も柔軟に取り入れて、融合して、自分たちの音楽をつくっていった。僕はそこに魅力を感じています。

ギタリストは良くも悪くも自己中心的な人が多い

飛鳥 大学のジャズ研に入ってからはどんな活動をしていたんですか?

小林 ジャズ研にはベースを弾く人がいなかったから僕がやってみたら、ベースという楽器が自分に合ってるなと思って。ギタリストは良くも悪くも自己中心的な人が多い。

パリ はは(笑)。

小林 というかギタリストは自分のことを一番好きな人が多いよね。そうじゃないと人前でギターを弾くことなんてできないから。僕みたいな人は誰かの後ろでベースを弾くほうが合ってるなと。人に目立ってもらうほうが楽しくて。ベースの人はそういう人が多いんじゃないかな。

飛鳥 素晴らしいですね。人を引き立てることに興味があったと。

パリ ジャズ研では音楽の勉強、音楽理論的なことも勉強するんですよね?

小林 そうね、今も僕の本棚には渡辺貞夫さんの「ジャズスタディ」やドン・セベスキーの「コンテンポラリー・アレンジャー」が置いてあって、一応一通り読破してはいるけれど、理論を理論として学ぶよりも、音楽から学ぶ感じだったかな。

飛鳥 音楽から学ぶ?

小林 ビートルズ、ジャズスタンダード、ブラジル音楽……そういう素材をとにかく弾きまくることによって、いつの間にか理論も体得していた、みたいな感じ。その方が大きいんじゃないかな。

パリ 弾きこなすのが先で、その間に音楽理論は身に着いちゃうものと。

小林 たとえば僕はビートルズのほとんどの曲をベースやギターで弾いてきたけど、それが結果的にノンダイアトニックコードが身に着くきっかけになっているというか。理論は後付けで、音楽を吸収することが大事だと思う。

飛鳥 なるほどー、音楽を吸収するね。

小林 仲山くんや飛鳥さんがやっている「流しの仕事」もきっとそうだよね。何百曲、何千曲と弾いているうちに、実は無意識のうちにいろいろなことを吸収していて。人からお金をもらって対面で実際に演奏することは、家で音楽理論の本を読むよりも、何倍も勉強になってると思うよ。

パリ 確かにそうなんでしょうねぇ。治郎さんが作曲家としてプロの道を志したのは大学のジャズ研時代なんですか?

楽器屋のボーカル募集の貼り紙からプロデビューの道へ

パリ 作曲家としてプロの道を志したのは大学のジャズ研時代ですか?

小林 わからない。15歳でギターの早弾きやってた頃からプロを志していたかも知れない(笑)。大学ジャズ研時代はプロ志向だったけど、あくまでプレーヤー志向だった。たぶん、その頃の自分はスタジオミュージシャンになりたかったんだと思うな。

パリ スタジオミュージシャンですか。

小林 当時のまわりは90年代初期のイカ天ブームの煽りを受けて、みんな髪の毛立ててバンドやってだけど、「それは違うんじゃないか」とは思ってた。音楽を追求していったものが音楽であって……。イカ天出身者の人達全員がダメというわけじゃないけれど。

パリ ジャズ研の中でも実際にプロデビューできる人はそうはいないじゃないですか。

小林 僕は大学をドロップアウトしてるから、ジャズ研も途中で抜けてるんだよね。

パリ そうすると、治郎さんが作曲できるようになったのはいつ頃なんですか?

小林 まだできてないかも知れない(笑)。自覚をもって作曲したのは21歳くらい。プロの現場で通用するクオリティという観点から言うと、比屋定篤子さんのデビュー曲「今宵このまま」あたりを書けるようになった頃かな。

比屋定篤子(ひやじょう あつこ)
1997年にSony Musicからデビューした女性シンガー。武蔵野美術大学在学中に作曲家を目指す小林治郎氏と出会い、オリジナル曲の共作やライブ活動を開始。小林氏が作曲やコンポーザーを担っていたSony Music時代の「比屋定篤子」は、ソロシンガーというよりも「2人のプロジェクト」という意味合いが強い。
https://www.110107.com/s/oto/page/hiyajo_special

パリ 比屋定篤子さんにとっても、作曲家の小林さんにとっても、それが「プロデビュー」になるわけですよね。2人の出会いは何だったんですか?

小林 大学辞めてプラプラしてた頃、「このままではマズい、何かアクションを起こさなければ!」と思ってボーカルを募集してみたの。当時はネットもSNSもなかったから楽器屋さんにバンドメンバー募集告知を貼ってもらって。それを見た比屋定さんが電話をくれた。

飛鳥 えー、凄い! そこから2人のプロデビューへと夢が実現していくわけですね。

小林 出会った頃は、彼女はまだ武蔵野美術大学の学生だった。すぐに意気投合してライブ活動をはじめたんだけど、卒業制作でCDジャケットをつくるから、そのついでに中身の音楽もつくりたいと言ってきて(笑)。そうやって制作した音源が結果的にデモテープとなってメジャー契約することになって。

飛鳥 比屋定さんは美大生だったけど、音楽にも興味があったんですか?

小林 そう、本当は歌唄いになりたいと思っていたらしい。彼女は武蔵野美術大学のラテン音楽研究会に入っていたぐらいだから。でも、両親にそうも言えないから、沖縄から東京に出てくる口実として美大に進学したのかな。

パリ 2人で音楽をはじめようとしたとき、他の楽器やバンドはどうしたんですか?

小林 当時、ギタリストの長谷川久さんが「ボサノヴァ研究会」というのをやっていて、月1でみんなで集まってセッションしていて。そこに僕も参加していたら、バンジョー奏者で現在はペダルスティールやバンドリン等も弾きこなす中沼浩さんと出会い、バラディゾというバンドを組んだの。

パリ なるほど。

小林 ちなみに、現在の日本のブラジル音楽シーンで活躍している人の多くは、この「ボサノヴァ研究会」セッションに数回参加してるよ。中沼浩と僕の他にも、伊藤ゴロー、伊藤葉子、平田王子、青木カナ、犬塚彩子、西澤沙苗、山本のりこ……。

パリ その治郎さんのネットワークで比屋定篤子さんのバンドをつくっていったんですね。

小林 そうだね。それで、府中のフライトというハコで演奏したときにソニー・ミュージックのスカウトの人がたまたま見に来ていて。

飛鳥 それまた凄い!

小林 ただ、そのスカウトの人はレコード会社の上層部の人じゃなくて、新人育成部門の人で。当時、僕等は生意気だったから「ソニーの育成アーティストなんてなりたくない、自分たちでバンド活動をやりたい」とそのまま続けていたら、育成部門の担当者が制作部門の上の人を紹介してくれて。その人は、今はソニー・ミュージックの取締役クラスの人で、CHEMISTRY等のデビューにも関与した一志順夫さんという人。僕らのライブを見て「うちでやらないか?」と声をかけてくれて。

ブラジルの音楽修行の成果が詰まったファーストアルバム「のすたるじあ」
小林 その話を受けて97年にソニー・ミュージックから比屋定篤子はデビュー。僕は当時リリースされた3枚のアルバムの全楽曲の作曲を任されて。

飛鳥 当時の楽曲は、やっぱりブラジル音楽の影響が色濃いですか?

小林 そうだね。僕は音楽修行と称して95年頃にブラジルへ渡り、1カ月半ぐらい現地の演奏を聞いてまわって。その後つくった比屋定篤子ファーストアルバム「のすたるじあ」は、ブラジルに滞在中、または帰国後に書いた曲が何曲かある。

パリ 現地ブラジルの人は、やはり演奏のレベルが高かったですか?

小林 特にギターやパーカッションはレベルが高かったね。印象に残ってるのは、ブラジル人ミュージシャンを多数輩出しているサルヴァドールという都市には打楽器隊やサンバパーカッション隊が練習できる場所が野外にあったこと。オロドゥンというパーカッション隊の練習なんかも生で観ることができた。

パリ ブラジルには代々木公園みたいな場所がたくさんあるんですね。

小林 そう。「リズムを鍛える場所が日常的に存在している」と感じた。ブラジルの有名なパーカッション奏者のカルリーニョス・ブラウンは、もともと道端で空き缶を叩いて演奏していた人で、そこから世界的なミュージシャンへとのし上がっていって。

パリ 天才的な人は誰かに見いだされて、デビューしていく流れもあって。

小林 ブラジルのサッカーと同じだよね。ストリートから世界的なプレイヤーが生まれていく。

パリ その刺激がなかったら、比屋定篤子さんのファーストアルバムも中身が変わっていたかもしれない。

小林 ちゃんと売れるものになったかもしれない(笑)。

パリ 逆にこだわらずにね(笑)。でも、僕が治郎さんを初めて知って、興味を抱いたのも、まさにこのファーストアルバム「のすたるじあ」だったんです。新宿のタワーレコードで何の気なしに視聴してみたらとても気に入って、よく見てみたら、全ての曲を小林治郎という人がつくっていた。90年代は自分で曲をつくって歌うシンガーソングライターがたくさん出てきたなかで、「この人は凄いな。会ってみたい」と思ったんです。

「平成流し」の原点、小林治郎とパリなかやまの出会い

飛鳥 治郎さんとパリさん、お二人の最初の出会いは覚えてますか?

小林 かなり鮮明に覚えてますよ。比屋定篤子さんと僕で、10人もお客さんが入ればいっぱいになってしまう小さい居酒屋でライブをやったときに仲山くんがお客さんで来てくれたんです。普通のライブハウスだったらお客さん全員と話す時間もないけど、そこでは全員と話をして。そこで仲山くんから「コーヒーカラーというユニットで、こういう音楽をやっています」と話を聞いて。

飛鳥 パリさんの第一印象は?

小林 連れていた女の子がかわいかった。

パリ えー、全然覚えてないな(笑)。

小林 あとは、なんだかわからないけど面白そうな奴だなと思った。一緒に関わっていったら何かが起こるんじゃないかと感じて。それは何の根拠もない思い込みなんだけど、思い込みがなければ何もはじまらないしね。

飛鳥 思い込みは大事ですよね。私もそう思います。

小林 さらに言うと、仲山くんには人として音楽に対する誠実さを感じたかな。それを今も持ち続けている人だと思う。音楽業界はインチキみたいな人もたくさんいるけど、最終的には誠実な人が残ってる。あと、仲山くんはベッドタウンに生まれて、父親がサラリーマンで、兄妹でと、僕も似たような環境で育ったから、人となりがわかったのも大きかった。

飛鳥 そこから2人の付き合いがはじまって、2008年に亀戸横丁で流しのコンビを組むわけですよね。その話も聞かせてください。どうしてパリさんだったんですか?

小林 知人から「亀戸横丁で流しを現在に復活させたいから協力してもらえないか」と言われて、そのときに頭に真っ先に仲山くんのことが浮かんで。……なんでだろう。直感もあるし、仲山くんはモノをプロデューサー的に捉えることもできるし、企画力があるから。他の人は誰も思い浮かばなかったんだよね。それで声を掛けたら仲山くんは「やってみましょう」と返事をくれて。

飛鳥 そこから2人で「平成流し」がスタートしたわけですよね。治郎さんも実際に流しをやってみて、いかがでしたか?

小林 僕は作曲家だからか、流しのパフォーマンスには向いてないなと思って、1年早々で退散しちゃった。でも、昭和歌謡の名曲をひと通り演奏できてものすごく勉強になった。メロディやコードだけでなく、歌詞の素晴らしさにも改めて気づかされて。そうやって僕の作曲感や音楽感みたいなものが変化していったんだと思う。だから流し体験前に書かれた曲と、流し後に書かれた曲では、同じ僕の曲であっても違いが見て取れる。大まかにいうと最近の僕の曲はどんどんシンプルになってる。

飛鳥 治郎さんにとっても大きな体験だったんですね。一緒にコンビを組んでいた当時のパリさんの流しのエピソードや、小林さんから見た「パリさんの流しとしての才能」を感じたことがあったらぜひ教えてください。

小林 仲山くんはあれから13年目になる現在も流しを続けていて、さらに平成流し組合を結成して、活動を拡大していて凄いと思う! これは才能というよりは、さっきも言ったように彼の「音楽に対する誠実な姿勢」による所が大きいんじゃないかな。あとは単純に流しに向いているのだと思う。

飛鳥 治郎さんは「平成流しの創始者」であり、現在は平成流し組合も人数がどんどん増えています。そのなかで時代は平成から令和へと移り変わりましたが、「令和を生きる今の流し」に期待することはなんですか?

自分の作品が世の中に広がったときに自分はもういないかもしれない

飛鳥 治郎さんは「平成流しの創始者」であり、現在は平成流し組合も人数がどんどん増えています。そのなかで時代は平成から令和へと移り変わりましたが、「令和を生きる今の流し」に期待することはなんですか?

小林 僕のつくった曲を歌ってくれること(笑)。それは冗談として、演奏する曲のルーツをたどっていくことかな。お客さんにリクエストされたから歌うでもいいんだけど、演者である流しはその曲がどこから来たのか、どこに源流があるのか、ということは知っているべきじゃないかなと思う。

飛鳥 うんうん。

小林 たとえば、今現在とある循環コードの曲が流行っているけど、そういうのは90年代にも80年代にも存在していた。そうやって辿っていくと、やがてスペクターサウンドの「Be My Baby」にたどり着く。僕が強制することじゃないけど、そういう流れを知っていて最新ヒット曲を演奏するのと、ただリクエストが来たから演奏するでは、全く違うんじゃないかな。

パリ それは流しがもつことのできるアドバンテージですよね。ただ演奏するだけではない「価値」があり、さらにルーツの話は酒のつまみにもなる話だから。あの曲とこの曲がじつは同じルーツじゃないかとかね。

飛鳥 ルーツでいうと、流し自体もそうですよね。昭和には街中にたくさんの流しがいて、一度はほとんどいなくなって、そこから治郎さんとパリさんが「平成流し」として復活されて。そういうルーツ、歴史の中で繋がっているんだなと思います。

パリ 治郎さんに「流しの未来」をうかがったので、治郎さんご自身の「今後の夢や希望」も聞かせてください。

小林 生きているうちに自分の曲が認められることかな。音楽をやる人も、文章を書く人も、絵を描く人も、「ひょっとしたら自分の作品が世の中に知れ渡るときに自分はもういないかもしれない」という覚悟をもってやっている人がたくさんいる。

飛鳥 そうですね。

小林 ゴッホの絵も生前に売れたのは1枚あったかどうかだし、モーツァルトも当時はそんなに有名じゃなかったと聞く。でも、できれば早く認められたいよね。

飛鳥 わかります。遺す、遺るってそういうことだと思います。

小林 僕は自分の作品が将来的に勝手に広がっていくと思い込んでいるので。ただ、それは100年後、200年後かも知れない。そういう覚悟をもって、1日1日を生きていこうと思う。それだと自分は何も潤わないけどね(笑)。でも、そう考えると、流しは目の前でお客さんに喜んでもらえて、おひねりももらえるから。

飛鳥 パリさんと同じことを言いますね。流しは、生の声が聞けて、等身大の自分を評価してもらえるという面白み、醍醐味がありますね。

音楽は「挫折」から生まれ、人生も「挫折」からはじまる

パリ 治郎さんの基本スタンスとして“覚悟”があるから、挫折というものはない?

小林 あるよ。自分の人生で挫折したと思ったのは、レコード会社との契約が切れてしまったとき。これは大きな挫折だった。でも、そこから「本当の人生がはじまった」とも思う。たとえば、F1レーサーのアイルトン・セナやミュージシャンのジャコ・パストリアスなどの天才は、20代後半や30代で亡くなっていて、それはある意味、「挫折しないまま人生が終わっている」ということ。

パリ 頂点で人生が終わってしまったようなもので。

小林 もちろん、これは傍から見た印象でしかないけど、本当の人生を味わうことなく逝ってしまったのだと思う。その一方で僕はこの世の音楽って、挫折から生まれることが多いと感じていて、ビートルズの名曲「イエスタデイ」はポールが14歳のときに母親を亡くしてしまった体験から生まれた曲。このように光と影が表裏一体となって存在している、そういうものだと思う。

パリ 治郎さんも挫折はあったけど、「あってよし」と捉えている。

小林 うん。あとは、作曲家にとっては曲を書けなくなることが挫折だと思うけど、僕はそういう経験はなくて。それは僕の作曲ペースを上回る需要がないから。

パリ つまり、自分のペースでつくれるということですね。

小林 そう、僕が売れっ子作曲家で、月に10本や20本と発注を受けたら、たちまち能力やストックが干からびてしまう可能性はある。

1人で音楽はつくれない。ポイントは「3人」

飛鳥 その現状は治郎さんにとっては良いこと?

小林 作曲ということだけを考えればよいことだけど、できれば生きているうちに売れたいから(笑)。そういう考えとは矛盾している。

パリ 需要は欲しいけど、枯れたくないということですね。

小林 うん、でも枯れたときにどうすればいいかはわかってるの。それはここで言うのはやめておくけど(笑)。

飛鳥 えー! ここだけだから教えてくださいよ(笑)!

小林 アウトプットするためにはインプットが必要だから、アウトプット以上のインプットをすればいいだけなんだよ。

飛鳥 インプットはどういう風に?

小林 2通りあって。1つは音楽のルーツをたどっていくこと。とにかく一生懸命聴いたり弾いたりして、それによって新しいものが生まれる可能性が出てくる。もう1つは人からインスピレーションを得ること。どんな人でも1人で音楽をやってないよね。特に僕は誰かに歌ってもらう必要があって、そこで初めて僕がつくったガラクタが芸術に変わるときがある。

飛鳥 ガラクタが芸術に変わる。

小林 それは誰でもいいんじゃなくて、特別な人が歌ったときにマジックや掛け算が起こるもの。僕なんかよりも偉大なミュージシャンがそれを証明していて、3人以上の天才が集結して、バンドなりムーブメントが生まれていっているから。

飛鳥 1人欠けてもいけないということですね。

小林 ビートルズだったらジョンとポール、そして曲数は少ないけどジョージが非常に良い曲を書いている。やっぱり3人以上いなくてはいけない。はっぴいえんども作曲家でいうと、細野晴臣さん、大瀧詠一さん、鈴木茂さんの3人がいて。

飛鳥 なるほど、3人がポイントになっている。

小林 最近のポップスがつまらないと仮定した場合、作詞作曲、編曲、歌、振付、みんな1人でやってるところがあって、それだとバランスは取れてるけど、スペシャリストが存在してないかなと。時代性に合ってると受けるけど、遺ってはいかない。やっぱり、ある程度以上のものになるためには、山下達郎さん、大貫妙子さん、もう1人村松邦男さんもいてシュガー・ベイブになる、みたいな。

飛鳥 そうですよね、確かに化学反応は凄い威力があると思います。1人でシンガーソングライターとしてやって成功してる人もいるけれど、そういう方たちも出会いの中で加わっている主要人物との化学反応の中でヒットが起きたりしてるんだろうなと思います。化学反応って凄いと思う。人とのエネルギーね。

オンライン横丁ファミリーでコラボ活動を

パリ 毎日の作曲活動において、幸せな瞬間、小さな喜びはなんですか?

小林 作曲してるときは一番幸せに思える瞬間だね。

パリ 「完成したとき」という意味ではなくね。

小林 完成することはもうわかってるから。完成図があるから作曲をするわけで。

パリ 作曲作業に入って完成するわけじゃなく、頭の中で最初に完成してると。

小林 頭の中か、心の中かわからないけど、すでに完成はしてるね。イントロはどうしよう、終わり方どうしよう、細かいところでコードどうしようと、全てが決まってるわけじゃないけど、大体の枠組みは決まってる。具体的にその曲のコードをつけるのは15分〜30分でできてしまうけど、そうして取り組んでいるときは幸せなとき。

飛鳥 それが設計図通りに固まっていく感じが。

小林 そう。今はちゃんとしたデモをつくるけど、自分の部屋でもある程度の音質の音源が創れてしまうので。主旋律に関すること以外でも、たとえばベースやリズムギターを録音しているときも、それも幸せな時間でもあるし。

パリ 素晴らしいですね。作曲は、仕事であり、ライフワークであり、と。……あぁ、そろそろお時間ですね。治郎さん、今日はたくさんお話を聞かせていただいて、ありがとうございました。

小林 これをきっかけに何かできたらいいね。

パリ 「オンライン横丁ファミリー」でね。作品的コラボもできれば面白いし。じつはここで1か月後に発表できるとか面白いですよね。

小林 どんどん出していきたいよね。飛鳥さんのための曲を僕が書くなり、仲山くんと共作したりね。

飛鳥 そんなことができたらいいですね!

パリ ということで、みなさんご清聴ありがとうございました。次回、第2弾8月16(日)は、作曲家であり、元新宿フォークでシンガーだった小田切大先生に登場していただきます。乃木坂46の「おいでシャンプー」の作曲で一躍ヒット曲を出して、それからいろいろ苦労しながら、今はドラマ劇伴やアイドルへの楽曲提供など奮闘しているようで、そういう話も聞けたらいいなと思います。それではまたお会いしましょう。治郎さん、ありがとうございました!

<END>

取材構成・編集 廣田喜昭(代官山ブックス)

「流しのいるオンライン横丁」は、無料で、誰でも自由に観覧できます!
Yahoo!ニュース 「流し」のいるオンライン飲み会が誕生(2020/05/12)
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