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映画鑑賞雑文「けんかえれじい」「東京流れ者」 1966年

鈴木清順作品は殺しの烙印、大正ロマン三部作、特にツィゴイネルワイゼンには恐ろしく痺れたというサブカル少年あるあるな人生を送ってまいりました。
そこでAmazonプライムでこの2作品が上がっており、本当にサブスクは定期的に、微妙にその監督の代表作と外れたものを出してきてくれるので有り難い限り。
「けんかえれじい」に関して、観始める前からアナキズムだったか、何かの本で言及されてて、結局反抗とは国家へ向かっていく云々のような例で挙げられていたのだけど、全く思い出せず、観ることに。
とにかく鈴木清順作品のこの頃の手法なのか、やたら微妙に説明なく飛んだりしがちで、本作では鈴木清順と言えばの赤い何かが白黒ということもありなく、岡山県備前が舞台なのに方言は殆ど関西弁で、高橋英樹の関西弁が酷過ぎ、バンカラ、喧嘩が主題なのにアクションもあまり良くなく、かったりいなと思っていると、会津へ転校した辺りから、なかなか魅せてくるわけですよ。
会津魂(日新館での厳格な教育に育まれたような)精神性を連呼する割には、弱きをイジメ、強きには平伏する様を見た欺瞞性を指摘し、山猿どもが!と攻撃したり、敵対グループとの抗争に関しても少数の仲間で奇襲などで撃破したり、その仲間の中に白痴みたいな奴がいるわけ。
そして、最後のシーンで、この映画が何故本に取り上げられていたか理解しました。
主人公が行きつけのカフェで謎の人物がお茶をしているのを見かけ、何故かその人物の目から恐ろしさのようなものを感じていた、というその件の人物、僕はてっきり昭和10年が舞台なので共産党員の重鎮かアナキスト、いやギロチン社にしても時代違うよなーと思っていたのだけど、この最後のシーン主人公が駅に掲示された2・26事件の報道に触れ、そのカフェで出会った人間が北一輝だったと写真で知り、白痴の仲間と、大喧嘩をするため一路東京行きの列車が走りだすという、もう全ての悪かった部分が吹き飛んでこの映画が最高に輝いた瞬間でした。

「東京流れ者」は、所々に鈴木清順らしさが迸ってましたね。舞台によくなる赤坂のラウンジもスタジオで作ったもう作りとして全く店でないような空間、そして所々に使われる謎の照明、散りばめられた赤いもの、銃撃シーンのカットのキレキレさ。ご馳走様でした。
ただ、けんかえれじいもそうなのだけど、1966年の作品の割に、何故か全体的にノリや演出が一昔前のように感じて仕方なく、ジャズ喫茶でGSな音でゴーゴーを踊っているのだけど、主人公含め登場人物の服装が古臭くて仕方なく、66年なのに主人公渡哲也が裕次郎カットなんやぜ?!いくら裕次郎信者としてもありえへんやろ!とか思いながら、露骨に挟まれるドライヤーの広告だとか、鈴木清順の日活での当時の立ち位置や扱いが透けて見えますよね。
ここからツィゴイネルワイゼンなどに覚醒していくと思うと、やっぱり何事も自身が持っている独特のセンスを試しながらやり続けたら爆発する日は来るのだなと。それが鈴木清順ですらそうなんだからね!

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