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ざっくり!日本美術史 江戸Ⅰ

最後は江戸時代の美術についてお話します。

江戸時代は1603年~1868年までの約260年間に及びます。
江戸幕府を開いた徳川家康は、新興都市・江戸に拠点に長期的に実権を握ることになりました。

幕藩体制による政治の安定化は経済の成長を促し都市人口の増加させます。その影響で上方と江戸を中心に町民文化が発展した時代です。

江戸前期の流れ

徳川家康は関東地方に江戸城を置き、幕府の拠点としました。
江戸時代の前期では、従来の上方(京都・大坂)と新興都市の江戸という2つの文化圏が成立します。

幕藩体制が確立してくると、安定的な経済基盤が確保され、封建社会のなかでも町人を中心とした都市文化が花開くことになりました。

17世紀頃は前時代を継承する上方文化が優勢。
江戸の町が成熟してくるのはもう少し先です。

また、幕府は1641年以降に鎖国体制をとりますが、オランダや中国とは交易を続けました。そのため、蘭学や文人画など他国文化の影響を受けた美術も存在します。

江戸文化と上方文化

江戸幕府は関東には江戸城や家康を祀る東照宮を造営。
京都では二条城の大改修など、権力を象徴する大規模な事業を展開します。

これらの建築が桃山文化に似た豪壮さや絢爛さを持っているのに対して、朝廷は貴族趣味を洗練させた桂離宮修学院離宮など、王朝文化を継承する建築を生み出しました。

江戸前期では幕府と朝廷の対照的な文化思考が如実に表れています。

ドイツ人建築家のブルーノ・タウトは昭和初期に来日し、桂離宮を「永遠なるもの」絶賛。その一方で、日光東照宮の華美な装飾を酷評したことで知られています。

■ピックアップ作品
・日光東照宮「陽明門」(1636年)
...徳川家康の霊廟として3代家光が大改修を実施、権現造の建築
・狩野探幽「二条城二の丸御殿大広間」(1626年)
...探幽は二条城の大改修時に25歳の若さで一門を率いて描いた
・桂離宮「古書院」(1618年頃)
...八条宮家の別荘で,数寄屋建築の代表作で茶室の要素を採用

上方文化の成熟

京都は平安時代以降、朝廷の置かれた文化の中心でした。

江戸時代に幕府が江戸に移ってからも、多くの絵師や職人が京都に残って技術を継承。文化都市としてのアイデンティティを保つため文芸復興が盛んになりました。

俵屋宗達のように町人層出身の絵師が現れたこともこの時代の特徴です。
陶芸や書など多彩な作品を残す本阿弥光悦「鶴下絵三十六歌仙和歌巻」の下地を手掛けた宗達は「風神雷神図屏風」などの作品を残します。

やまと絵の題材をアレンジ・単純化した作風は尾形光琳など後続の絵師に影響を与え、琳派の祖としても知られるところです。

室町期から京都で活躍した絵師集団・狩野派は幕府に同行し拠点を江戸に移した「江戸狩野」と京都に残った「京狩野」に分かれます。

江戸狩野の中心は狩野探幽。江戸幕府好みの瀟洒な画風と強力な組織体制を確立し、御用絵師として社会的地位を得ることに成功します。

一方、京狩野は狩野永徳の弟子・狩野山楽の家系が中心です。江戸狩野とは対照的な旧来の綿密で個性的な画風を得意としました。

■ピックアップ作品
・狩野探幽「雪中梅竹遊ぶ禽図襖」(1634年)
...名古屋城上洛殿に描いた作品で,江戸狩野の画風
・俵屋宗達「風神雷神図屛風」(17世紀前半)
...以降琳派の画家が好んで同じ画題を描いている
・俵屋宗達「源氏物語関屋澪標図屏風」(17世紀)
…源氏物語の一場面を描いた屏風
・本阿弥光悦「白楽茶碗 銘不二山」(17世紀前半)
...古田織部に茶を学び、茶碗焼きから蒔絵デザインも手掛けた
・本阿弥光悦・俵屋宗達「鶴図下絵三十六歌仙和歌巻」(17世紀前半)
...光悦が書を、宗達が下絵を描いた絵巻
・野々村仁清「色絵藤花文茶壷」(17世紀)
...王朝趣味を感じさせる色彩豊かな絵付け
・「風俗図(彦根屏風)」(1624~1644年)
...近世京都場末の退廃的雰囲気を描いた風俗画

ナタデココをこよなく愛する旅のひと。