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背筋がのびる心地よさ

居心地がわるいわけじゃない。
むしろ心は、しんと落ちついていて、いつの間にか、じぶんの頭のなかから雑念が消え去っていることに気がつきます。

それはたとえば、神社を参拝したときや、晴れた日にくっきりと輪郭を現した富士山を見るときなどに感じる気持ちにちかいでしょうか。
「くつろぐ」というのとは違う、私の背筋をしゃんと伸ばしてくれる、その緊張感が、こころよい場所だったのです。

さて一体、どこの場所のことを言っているのかといいますと、じつは地元にある、とあるお店のことなのです。

そこは、ごはんを食べるお店。
でも、「レストラン」でも「喫茶店」でも「カフェ」でもない。
そんな呼びかたが、全然しっくりこない。
唯一、そのお店の「店名」だけが、しっくりとくるような。
そんなお店なのです。

いつも静かで、すこしだけ張りつめたような空気が流れている場所でした。
余計なものが削ぎ落とされた飾り気のないごはん(でも見た目はとてもうつくしい)はおいしくて、お店を営んでいたご夫婦の笑顔も、とてもやさしくて、だいすきでした。

私もほんの一時期かよっていただけで、しかもそれも十年以上も前のはなし。いまは足を運べていません。
でも、それにも関わらず、当時お店のドアをくぐったときに感じた店内のあの凛とした空気を、しんとしているのに何故かあたたかいと感じたあの空間を、いまだに思い出すことがあります。
というより、最近とくに思い出す回数が多いのです。

頭からはなれていた記憶が、ふとよみがえってくる。
そして一度よみがえると、その後も頻繁に思い出してしまう。
思いでの良し悪しに関わらず、じぶんによくあることです。

ところで、そのお店を思い出すようになった今回のきっかけですが、それは十中八九、いま読んでいる本が引き寄せたものだと確信しています。

幸田文氏の『木』。

映画『PERFECT DAYS』の平山さんが、古本屋さんで買い求めていたあの文庫本(あんな古本屋さんが近所にあったらかよいたいです…!)。
カンペキ映画の影響で、ややミーハーな気持ちで購入をきめた本だったのですが、ページをひらいた瞬間に、「ああ、あのお店のような空気感だ…」と思ったのでした。

一本芯がとおっていて、凛としている。
私は深呼吸をして息を吐き出すとき、心臓の位置が、普段の場所から数センチ沈むような感覚をおぼえるのですが(それが心地よいのです)、読んでいるあいだは、それがずっと続いている感じがしました。

九月二十八日というに北海道はもう、もみじしはじめていた。染めはじめたばかりの紅葉なので、あざやかさ一際だった。レールぞいに断続しつつむれ咲くのこん菊は紫がふかく、宿の玄関わきに植えられたななかまどは、まっかな実を房に吊って枝は重く、秋はすでに真盛りへかかろうとしていた。

幸田文著『木』新潮文庫 P.10

読みはじめてすぐ、私が恋に落ちたのは、この文章でした。

淡々としているけれど、淡白ではなくて。
落ちついているなかにも、細やかなるものを見落とさない鋭さがあって。
その一文一文が、私の背筋を、すこしずつ伸ばしてゆきます。

それにしても、思い出してみると、つくづく「よく今まで忘れたままでいられたなあ…」と考えてしまいます。
つぎに帰省したとき、行ってみようかな。
それとも、思い出のままとっておいたほうが、案外しあわせなのでしょうか。

どちらにしても、思い出すことができて、ほんとうによかったなあと思います。
思い出すたびに、当時、皮膚で感じていたお店の空気が私のこころに流れてきて、背筋が伸びるのです。