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腐女子が見たミッドナイトスワン


見てきました。ミッドナイトスワン。
前回の記事で予告を見て爆泣きしたというあの映画。
ついに映画館で見てきたのですが、いや〜、しんどい(笑)
重たい余韻がずっと頭や胸のあたりをもやもやぐるぐると。
この映画に対する思いや感情を吐き出したくても適切な言葉が出てこなくて、胸につっかえて、消化不良を起こしているので自身の感情の整理の意味も込めて感想をブログに書きます。特に考えず、思ったことをそのまま書くので文章の読みやすさor正誤性等は全くないかと思います。

加えて、映画を観終わってから様々な方の感想や考察を読みまくりました。そのネットの情報を見ていく中で得た気付きやはっとさせられた事も織り交ぜて書いていきますので、見たことある感想or考察だな〜と思うかもしれませんがそちらも悪しからず。あくまで私のこのどうしようもない気持ちの掃き溜め場です。


まず前提として、なぜミッドナイトスワンを見ようと思ったか。
それは冒頭でも記したように偶然予告を見て泣いてしまったからというのは勿論、なぜYoutubeの予告動画であれほど心が揺さぶられたのかって話を。

いきなりの話になりますが、私は腐女子です。BL(ボーイズラブ)作品を好んで摂取します。今は腐女子という存在もメジャーになっていて、昔と違ってこそこそ隠れて活動、というよりかは一つのジャンルとしてしっかりと世に認識されていると感じます。腐女子向けのコンテンツの充実や腐女子向けのマーケティングもすごく目にします。
ただ、こうした「BLを好んでいる腐女子」とLGBTQは単純にまとめて処理できるものではなくて。なんなら腐女子はBLをエンタメとして昇華している立場の勢力であるわけで、なおさらLGBTQと同一のテンションで語ってしまうのは危険なんですよね。 
語弊を恐れずにいうと、腐女子はファンタジーとしてのBLを求めているわけで、LGBTQの方々はリアルと必死に向き合っている。まあだからこそ互いに住み分けができていて、交わらないように保ってきているのだと思います。

そして私は好んでBL作品を嗜んでいる立場でありながら(だからこそ?)、LGBTQから派生するBLものや性同一性障害等を扱ったエンタメ作品(主に映像作品)に嫌悪を感じていました。ファンタジーとリアルを混同してんじゃねえよって。同性というキーワードを不自然に強調しているなとか、LGBTQを理解していますよという世間へのアピールかよとか、おそらく制作側にそういう意図はないのはわかっていながらも、どうしてもそうした考えが頭を過ってました。

同性だから燃えあがる恋なんてファンタジーでしょ。
性の苦しみはこんな演技の涙で表現できるほど簡単なものじゃないでしょ。

私は自分の人生しか生きたことがないので完全に想像になってしまうのですが、なぜかそう思ってました。

実際の当事者の方々の気持ちはわかりません。私が想像している通り(想像を絶するような)辛い思いをしているかもしれないし、うまく付き合っている人もいるかもしれないし、世にLGBTQの存在を認識されて嬉しい人もいるかもしれないし、反対に日の目を浴びたくない人もいるだろうし。

まあ何が言いたいかというと、私は(エンタメが)LGBTQの問題を扱うのであれば、しっかりとリアルを描けよと。そのためには、そもそも男女というフィルターに頼るのではなく、『人間』としての物語を作り上げろよと。ジェンダーの問題はその『人間』の個性として取り上げろと。その個性が良いものであるか悪いものであるかという部分で初めて「問題」として取り上げろと。そう主張したいわけです。
※まじで何回も言いますが、私はLGBTQについて詳しくもなければ勉強しているわけでもなく、さらにはエンタメをどうこう言えるような人間ではありません。(チキン)


そんな中で見たミッドナイトスワンの予告。
もちろん根底には主人公・凪沙の性に対する問題があるし、物語全体にジェンダーのことが深く関わっているんだけども、最終的には「愛」の話というのがものすごく伝わってきて。
「トランスジェンダー」の凪沙が母になる話ではなく、凪沙というひとりの人間が母になるまでの過程に横たわる問題としてトランスジェンダーがあったという解釈ができたのです。(いやそんな軽々しいものでは決してないけど。)伝わるかな。(日本語下手)

だって、わざわざ「女の」母とか「男の」父とか言わないじゃないですか。
LGBTQ、ひいてはこの世の差別問題の目指す先の一つとして、「わざわざ主張されない」ということがあるんじゃないかなあと思います。

変にトランスジェンダーが主張されていない、役者さんたちの(良い意味で)素朴な、大げさすぎない演技がとてもリアルで、これは何のフィルターも通さずに見れるんじゃないかと予告の段階で感じました。

ちなみに予告動画は15分もあったので、もはや本編見なくても大体の話は予想できるし良いかな〜とか思っていた私のなんと浅はかなことよ。
事前に想定していたものより遥かに深く、重く、切ない話でした。


※以下めちゃくちゃネタバレ

ていうか私は毎回前置きが長くて、本題に入るまでに書いている私も読んでいる方も力尽きてしまうのではないかとwwww

とりあえずいけるとこまでいきます。(見切り発車スタイル)
ちなみにこの映画を語る上で「すごい」とか「やばい」とかは極力使いたくない。そんな抽象的な言葉にのせれるような濃度の感情ではないので・・・はい。


●主演のお二人

まず必ずと言って良いほどこの映画で評価されているのが主演二人の演技。凪沙役の草彅剛さんと一果役の服部樹咲さん。
映画素人の私から見ても壮絶な演技力だった。てかむしろ演技してない。
よく「役が憑依した」とか言うけど、それすら通り越して、実際にいる人間の日常を私たちがたまたまスクリーンで見ているかのような。
特に一果は、新人だからというのもあるのかわからないけど、台詞に感じた場面が一回もなかった。私の性格がひん曲がってるからなのか知らんけど、基本的にドラマや映画を見てると、「日常生活でこんな言い回しするか・・・?」みたいなの気になっちゃうのね。あと、こんなハキハキと言葉を相手に伝えることってあるのか?みたいな。(もちろん映像作品は観客が台詞を聞き取れるように滑舌よく言わなくてはならないのだけど)

一果の場合は、台本の文章に感情をのせて発してるんじゃなく、あたかも一果というキャラクターがその場で思ったことを自然に話しているように見えたの。台詞も、声の出し方も、話すタイミングも、さらには言葉以外の、目の感情すらも。びっくりしましたわ。
特に凪沙に公園でバレエを教えるシーンは、二人の距離が縮まっていく過程として描かれているからもっと大袈裟にやっても良いんじゃないかと思うんだけど、あくまで淡々と、日常のワンシーンとして「特別」なシーン感を出さないところが逆に泣けた。リアルで。人と距離が縮まる時って、さりげない一瞬の積み重ねだよなあって。

見た目や雰囲気も映画の最初と最後では全然変わってて、1本の映画を通して一果が、そして女優・服部樹咲がこの期間で成長してるんだなあってのが感じられて、まるでドキュメンタリーで見ているかのような感覚でした。

草彅さんの演技は本当に圧巻。私がわざわざ感想言わなくてもわかるよね。(それを言ってしまったらこの記事自体の意味がww)
ぶっちゃけ見た目があまりにも草彅感残りまくってて大丈夫か!?と思ったんだけど、逆にそれが良かった。もっと女性的な見た目であったりしたら色々変わってたと思う。物語というよりも凪沙の人生がね。
表情で母性に目覚めていく過程を表現するのがあまりにもうますぎて、最初の頃とバレエコンクールの時の顔全然違ってたよ。

他にもりん役の上野鈴華さんや瑞貴役の田中俊介さん、母親役の水川あさみさんとか、役ではなく実際に存在するキャラクターとして感じられた。


ではでは続いて物語の感想とか考察とか考えを所々ピックアップしていきます。(保つのか私の集中力)


●りんと一果

まずりんと一果の関係ね。
そもそもあんだけ金持ちであの小さいバレエ教室に通ったり、一果が在籍するような(おそらく)公立の中学校にいるわけなくない????というツッコミは置いといて(笑)

彼女は私の中でダークホース的な存在で、衝撃的でした。
普通こうしたポジションで出てくる同世代の女の子ってライバルとかいじめっ子で出てくるじゃん?だから最初に登場したときも勝手に敵キャラみたいに感じてたんだけど、ごめんなさい全くそんなことなかったです。なんなら最後まで良い子すぎて、もうちょっとスレてても良かったんじゃ・・・くらいに感じました。笑
一果がバレエを続けてこれた要因の一つには確実に彼女の存在があるし、本当にあのバレエ教室で一果と出会ってくれてありがとう…という気持ち(逆に一果と出会ってしまったことで彼女の人生がああなってしまったのかもしれないけど)

一果に意地悪をしなかったのは(個撮の件で多少陥れようとした瞬間はあったものの)恋心(と視聴者は表面的には受け取るけど、実際はもっと複雑で繊細な感情であったはずだ)もあったと思うけど自分も満たされていない立場で同じ匂いを感じたからなのかな。だから何度も言うけどりんちゃんがあの段階であの程度のスレ方で留まっていたのは奇跡だよ。。。まあバレエの存在がりんちゃんをギリギリ律していたのかもしれないね。

自分の存在意義をどんどん失っているりんと、道を切り開いていく(そして先生にも凪沙にも必要とされていく)一果との対比が切なくて。ただ唯一、一果はりんを本当の意味で必要としていたはず。ただお互い幼いが故にその感情をうまく言語化できなかっただろうし、一果も気持ちを表に出すタイプじゃないから結局はどんなにお互い思い合っていても結末は一緒だったんじゃないかな。


●母親とは

予告で一果が「お母さん」とつぶやく声。これ、映画を観る前は完全に、凪沙を母親だと認めて初めて呼ぶシーンだと想像してたのね。ああ、このシーン見たら絶対泣くわ…とまで予想してたんだけど、実際は違ってました。

コンクールで緊張してしまい、(または何となくりんの事を察していた?)踊れなくなった一果。その時に出た一言。

だから見ている側は、一果が誰を想って(頭に浮かべて)この言葉を発していたかはわからないわけですね。
※早織は自らを「ママ」と呼んでいるのでやはり凪沙のことだったのではないか説もあったけど、一果は早織を「お母さん」と呼んでいるのでその説は信ぴょう性に欠ける。

ちなみに私は両方の事を思い浮かべたと思いました。
どちらでも良いから自分を助けて欲しいと。

多くの人にとって母親は神にも勝る存在だと思います。
神様だけは自分を裏切らない。
どんなに辛い事をされたとしても、結局は神様(母)に縋ってしまう。

ましてや中学生の子供が、母親という絶対的な精神の支えが無い中であの舞台を乗り切ることはできないでしょう。

早織のバックグラウンドが映画ではあまり描かれていなかったけど、彼女だって本当は真っ当に一果を愛したかったはずなんですね。旦那や母親が恐らくいなくて、一人で一果を育ててきて、正直、短い期間を過ごしただけの凪沙に母親として負けるとは到底思えない。
これがまたこの映画のリアルなところで、もっと早織を酷い親として描写して凪沙との差を見せつけることもできたし、凪沙が母親として選ばれた方がすっきりする展開のはずなんだけど、そうじゃない。

凪沙はトランスジェンダーだから母親になれなかったのではなく、そこは単純に母親としての気持ちや覚悟や愛の大きさで早織を超えることができなかったんじゃないかと思う。

現に、肉体的に女性になっても凪沙は母親になれなかったし。

恐らく焦ってしまったのもあったし、性の呪縛に蝕まれてしまっていただろうし、これが瑞貴が言っていた「堕ちていく」ことなんだろうと。
その結末が最後のあの姿に繋がるわけですね。(自暴自棄になってしまってたのかな)

逆に早織は母親として持ち直したんだと思う。
中学校の卒業式シーンでは一果を見つめる眼差しが愛に溢れていたし、一果も早織と自然にツーショット写真を撮っていたから、もちろん生活の中で衝突することはあったかもしれないけど、二人で乗り越えたんだろうな。

ちなみに、広島でも一果はバレエのレッスンを受けていたんだけど、そのお金は誰が工面していたんだろう?最初は凪沙がこっそり…とか思っていたけど、あの体の状態や自暴自棄になっていたであろうことを考えると金銭的に援助するのは無理かな〜って。だから結局は広島の家族が出してたんかね。でも先生に広島にレッスンに行って欲しいと頼んだくらいはした気がする。

一果の中で凪沙がどういう存在だったのかは最後までわからなかったけど、母親として見ていたのか、凪沙という特別な存在として見ていたのか、
でも凪沙としては最後まで母親として一果に接していたと思う。

この、凪沙が母親になれたかなれなかったかというのは見ている側の判断に委ねられるだろうし、まあそこは重要な点では無いかもしれない。




本当はもっともっと考察したいことたくさんあるけど、長くなってきたので&私のポテンシャルではこれ以上深く掘り下げていくと収集つかなくなるのでここらで。

後半の展開が衝撃的すぎて最後の海のシーンでは泣けなかったこととか(思考が完全に停止した)一果がバレエにそこまで惹かれていく理由を詳しく書いて欲しかったとか(小説版では触れられているらしい)早織、凪沙、バレエの先生の3人の母から一果は育ててもらったとか、触れたい部分はどんどん出てくるんだよな〜

シーンの対比とか、色が持つ意味とか、バレエの知識とか、一つの作品でめちゃくちゃ考察できるのが映画のすごいところだと思ってます。

映画だけじゃなく、もっとそうした芸術作品をインプットしたいと感じる今日この頃です。

では、またしばらく映画の余韻に浸ります。ばい。


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